デューイ「学校と社会」を読む その2

前回アメリカプラグマティズムの大家かつ偉大な教育者であり、戦後日本の教育改革に大きな影響を及ぼしているデューイについて、戦後の教育政策の大きな対立軸を形成してきた系統主義教育、経験主義教育とも絡めて紹介を行いました。

 

昨年の学習指導要領の改訂にもみられる通り、現在はゆとり教育への反省に立った系統主義の20年間に位置しますが、当該改訂のバックボーンを貫く「社会に開かれた教育課程」という理念や、教育のHow toに関わる部分での「アクティブラーニング」重視の姿勢は、デューイの教育観や、長女が東葛中で実際に受けている授業とも相入れるものでした。

 

今回は「学校と社会」(以下、「テキスト」と表記します)の中で語られている内容について、私自身の経験に引きつけていろいろと考えてみたいと思います。

 

【教室の形】

テキストには、以下のような記述があります。

 

“生物学者が一片か二片の骨を取って来て完全な動物を再構成することができると同じように、もしわれわれが、醜い机が幾列にも幾何学的に整然とならべられて、できるだけ活動する余地をのこさないように密集させられており、その机たるやほとんどみな同じ大きさで、その上に本・鉛筆・紙などを載せるのにちょうど足りるくらいの広さであり、・・・(中略)・・・といったありふれた教室の風景を心のなかに思い浮かべてみるならば、われわれはこのような場所でおこなわれうる唯一の教育的活動を再構成することができるであろう。それはすべて「ものを聴くために」つくられたものである・・・(中略)・・・ものを聴くという態度は、比較的に言えば、受動的の態度であり、ものを吸収する態度である。・・・(中略)・・・子どもはできるだけ最小の時間にできるだけ多量の教材を取り込めばよいことを意味している。”

 

テキストのこの記述を読んで思い浮かぶのが、会社から通わされた、とあるビジネススクールでの光景です。

 

ありがちな会社の思いつき?なのか、私はクリティカルシンキングを日本でいち早く広めた某ビジネススクールの単科(もちろんクリティカルシンキング)コースに、貴重な土日を削って通わされることになりました。

 

気乗りしない気分で教室に足を踏み入れた瞬間目に飛び込んできたのは、これまで通ってきた学校とはまったく異なる教室の風景です。

 

教室には整然と並べられた机の列の代わりに六脚の椅子で縁取られたテーブルが6つほど離散的に配置され、

 

その周りを大小のホワイトボードが取り巻いていたのです。

 

その理由を知るために、「クリティカルシンキング」(以下、「クリシン」と表記します)というものについて簡単にご紹介します。

 

クリティカルシンキングとは】

クリシンとは、「『健全な批判的精神を持った客観的な思考』を実現し、物事を正しい方法で正しいレベルまで考えるための体系的な方法論」であり、①イシュー(議題)の特定、②抜け漏れのない枠組み設定、③初期仮説の構築、④仮説の検証・進化、⑤結論の導出、という課題解決ステップを踏む。
上記5段階の課題解決ステップのうち①~③は論理的な思考を実現するためのフレームワークまたはプロトコルであり、③~⑤は当該プロトコルの下で思考力を発揮し、結論へと迫って行く部分と言える。
また、③~⑤は根拠→主張の関係に支えられた論理の「ピラミッド・ストラクチャー」を構成しており、相手の認識/関心/反応に合わせて適宜組み替えを行うことで効率的・効果的なコミュニケーションを行うために利用することができる。

 

【クリシンに最適な学習形態と教室の形】

但し、クリシンそのものは思考をより良い方向に導くためのフレームワークに過ぎず、その効果は可視化された思考の繰り返しによる経験則の蓄積を伴って初めて現れるから、最適な学習形態は「座学」ではなく、実際に特定のイシューについてグループワークを行い、意見を交換しあう「アクティブ・ラーニング」の形式をとることが必須であるといえる。

 

つまり、クリシンを学ぶことを主目的とするビジネススクールの授業は本来的に座学よりもグループディスカッションを通じた相互学習を目的としていて、そのような目的が整然と並べられた座席よりも離散的に配置された長テーブルを、唯一の黒板よりも、長テーブルを取り巻く分散配置されたホワイトボードを選択させているのだと後で理解しました。

 

【学校教育とディスカッション】

これまでデューイの経験主義的教育論を述べてきましたが、私自身、ベビーブーマー世代の苛烈な系統主義的教育観の中で育ってきた古い世代であり、クリシンなんてものは

・なんら専門知識もない人が

・答えのない議論をすることで

・自己満足だけを持ち帰る

カモがネギを背負って学校の利益に貢献する場所という意識を捨てきれずにいました。しかしその想いは すぐに捨て去ることになります。

 

典型的な日本の学校教育を受ければ受けるほど、生徒はディスカッションに不向きになって行きます。

 

限られた時間内になるべく多くの知識を詰め込む授業は予期されない生徒からの質問を排除する方向に働きますし、

 

黙々と情報を受け取ることに慣れた生徒は、先生・生徒及び生徒・生徒間のコミュニケーションがより深い知見を先生やほかの生徒から、そして何よりも自分から引き出すことに役立つという事を知りません。

 

そのことに加えて、

 

先生からの問いには常に「模範解答」があり、なるべく模範解答に近い発言をしなければならない。

 

人の発言には格付けがあり、品格のないつまらない発言をするのは恥ずかしい事である。

 

といった考えが働いて、そもそも出来ないことがあるから学校に学びに来ている、つまり「出来ない」ところから始まっているはずなのに、授業での発言を通して少しでも周りの人より「出来ると思われたい」という意識を持ってしまいます。

 

【実効性を上げるための学校の方策】

ビジネススクールの先生方は

・授業の実効性を高めるものは何よりも闊達な議論であり、

・その闊達な議論をする上で先述したような思考回路から導かれる「量より質」、「模範解答」というような考え方が邪魔になる。

という事を理解しており、授業初日はこれを打ち砕く事から始まりました。

 

それは、

・クリシンは「質より量」

・(仕事場と異なり)学校はリスクフリー空間

という言葉であり、

「質より量」を体験するためのグループワークであり、

授業の後の盛大な飲み会であり、

卒業生による世話役の配置

でありました。

 

特にグループワークで経験したことは、系統主義的な学習観を砕く上で非常に効果的でした。初日の授業での最初のグループワークは、ある設定の下で「レストランの売り上げを上げるための方策を、7分間のグループワークで20以上挙げよ。」というもので、事前に配布されたハンドアウトにも予習課題にもない即興課題でありました。

 

初日に出会って数分後の仲間と時限を切られた、一見不可能な課題に取り組む際には、先ほどの「量より質」という考えはどこかへ吹き飛んでしまいます。

 

まずもって「模範解答」的なアイデアなんてものは殆ど新奇性のない最大公約数的なものですから、メンバー間で持ち寄っても重複が多くて数が稼げません。

 

結局、自分とは違う視点を持った誰かが出す新たな論点を深掘りしながらお互いの意見を玉突きで次々展開していくしかないのです。

 

そしてその最中にも、脱線をしないよう常にイシューに立ち返り、自分たちの立ち位置が適切かどうかをチェックしながら進める必要がある。

 

しかしその結果、課題はあっさりとクリアされました。

 

 【授業を通じて学んだこと】

この作業を通じて私は、

・一個人が自己完結した環境の中で考えられることの狭さと

・視点の異なる他者とのアイデアのぶつかり合いが、いかに他人の、そして自身のポテンシャルを引き出すのに役に立つか

 

を学びました。そしてその学びは、その後週末を使って三カ月続いた授業の中で深められて行きました。

 

2017年3月に将棋の現役名人に勝利した将棋ソフト「ボナンザ」。「機械学習」、「深層学習」という手法を用い、自ら学ぶことができるボナンザの強さの秘密は、将棋ソフト同士で行う700万局にも及ぶ対局からの学びにあると言われています。

生身の棋士が生涯に行う対局数は10万局と言われていますが、ボナンザはその70倍の対局を行なっているわけです。

 

そんな将棋ソフトが指す将棋について対局を行った名人は

「将棋にはまだこんな手もまだ残っていたんだ」、「これまで人間がやってきた将棋とはまた別の銀河があってもおかしくはない」

と感じたと言います。

人の認知を広げ、可能性を開いていくのは自己完結的な学びではなく、より多くの自分と異なる考えとのぶつかり合いとその中での学び、気づきにあると言えるでしょう。

 

東葛中で行われているアクティブラーニングを活用した学びについて「自己完結させない学び」という捉え方をし、その価値に賛同する背景には、これまで述べたような経験が背景にあるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デューイ「学校と社会」を読んでみる

【デューイ「学校と社会」を読んでみる】

これまでいろいろと述べてきましたが、私は教育論について特に知見があるわけでもなんでもありません。そこでこれから何回かの記事では、教育論の古典とよばれるものについて近年の学習指導要領の改定や東葛中が目指す教育にも関連づけながら学んでいきたいと思います。まずは、米国プラグマティズムの立場から伝統的な学校教育に大胆な批判を加え、戦後日本の教育改革にも影響を及ぼしたデューイの「学校と社会」について見ていきます。

 

【デューイの略歴】

まずは、「学校と社会」(岩波文庫)の解説に従ってデューイの略歴をざっとまとめてみます。

 

1859  米ヴァーモント州バーリングトンに生まれる

1882    ジョンズ・ホプキンス大学大学院入学

1884 「カントの心理学」で同大学のPh.D.(博士号)取得

1894 シカゴ大学に哲学・心理学・教育学を合わせた学部の部長として招かれる

1896 シカゴ大学付属小学校「デューイ・スクール」開設、1903年まで続く

1905 コロンビア大学で哲学の教授に就任、1930年に退職

 

デューイはもともとヘーゲル主義者としてドイツ観念論哲学に傾倒していましたが、1890年代から精神と行動の関係を実証主義・技術的な見地から、個人と社会の関係を生物学的見地から考えるようになり、デューイ自身が「道具主義・実験主義」と名付ける立場からの活動を続けて行きます。

 

デューイは「観念は実際の状況のなかで使用してみなければ、その正しさを試査することもできないし、その誤りを訂正することもできない」との立場を教育にあてはめて「教育という過程を操作すれば人間の認識の発達や性格の発達についての実験をおこなうことができるであろう。大学に物理学や生物学の実験室があるように、人間の精神の発達について研究するわれわれの学部にもそのための実験室があってよいはずだ。」と主張し、生きた人間の社会生活を実験材料とする実験室としての学校、「実験室学校」の開設を提案し、その提案は1896年のシカゴ大学付属小学校開設として結実します。

 

「学校と社会」は、シカゴ大学付属小学校の生徒と親たちを前に行われた、同小学校における三年間の教育実験の三回にわたる報告講演をまとめたものです。

 

このようにシカゴ大学時代には哲学者としてよりもむしろ教育学者として名声を高めたデューイですが、コロンビア大学に哲学の教授として招かれてからはかれ一流のプラグマティズムを大成し、アメリカ資本主義の発展形態を支える哲学的、思想的基礎の構築に大きく貢献しました。

 

以下は「学校と社会」(岩波文庫)の解説によるデューイの功績に関する記述です。

 

「こうしたデューイの活動によってアメリカ資本主義はその発展形態にふさわしい哲学をもつことができ、プラグマティズムは現代アメリカ哲学の主流として不動の座に上がった。デューイが、すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境との相互作用、環境を統制する努力の中から生まれ、かつ進化すると説く道具主義の立場に立つとき、彼の関心はアメリカ社会の実際生活にむけられる。・・・(中略)・・・デューイは、哲学が自らを再建するためには、「哲学者の問題」を解くためのものたるをことをやめて、「多くの人々の問題」を解決するための哲学的方法となることをもとめ、職業的な哲学者ではない一般の人々が日常生活のなかで出会うあれこれの問題を根本的に、原理的に解明する方法として哲学は再発足すべきであると説いている。デューイの哲学が普通人(common man)の哲学とよばれるのは、この意味においてである。」 

 

【教育学の二大潮流、系統主義・経験主義とデューイ】

私は教育学を系統だてて学んだことがないので生半可な知識で恐縮ですが、「系統主義」、「経験主義」というキーワードを中心に教育学の潮流とデューイの位置づけを見てみましょう。

  1. 学校は、暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、そのなかで子どもたちが興味にあふれて活動的な社会生活をいとなむ小社会にならなければならない。
  2. この小社会は、たんにそこで子どもたちの自発的な活動がおこなわれる小社会であるばかりではなく、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなければならず、そのために学校と社会とのあいだの活発な相互作用がおこなわれなければならない。

とするデューイの教育学は、「経験主義教育学」に分類されるようです。

一方、科学や学問の成果を段階を追って系統だてて教えることを重視するのが「系統主義教育学」であり、それぞれ以下のように整理されています。

https://macanori.files.wordpress.com/2010/12/e7b3bbe7b5b1e4b8bbe7bea9e381a8e7b58ce9a893e4b8bbe7bea9e381aee69599e882b2e8aab2e7a88b2.pdf

【系統主義と経験主義の間を揺れ動く日本の戦後教育】

日本の戦後教育は、系統主義と経験主義の間を振り子のように往復してきました。日刊SPA!+plusの連載記事

nikkan-spa.jp

では、系統主義教育を知識重視型学習、経験主義教育を問題解決型教育と位置づけた上で、戦後教育にみられた両教育観の間の往復を以下のようにまとめています。

https://nikkan-spa.jp/wp-content/uploads/2016/09/77586bb7d86b8ffa33552c71954b1c8d.jpg

上掲の表によれば、現在は「脱ゆとり教育の20年」、すなわち「ゆとり教育の30年」で表面化した学力低下問題等をうけて振り子が再び系統主義教育の方へと振れている時期との認識ができます。

一方、昨年3月に公示された学習指導要領の改定に向けた審議のポイント

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/09/09/1377021_3.pdf

では

これまで改訂の 中心であった「何を学ぶか」という指導内容の見直しにとどまらず、「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」までを見据えて学習指導要領等 を改善

とあり、「どのように学ぶか」については「アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)の視点からの学習過程の改善」が、また上述の三つの柱を実現するために「社会に開かれた教育課程の実現」が盛り込まれています。

 

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/061/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/07/20/1374453_1.pdf

この、「アクティブ・ラーニング」や「社会に開かれた教育課程の実現」というのはまさにデューイが「学校と社会」で述べていることなのです。ゆとり教育への反省から系統主義教育へと振れているといえる今回の指導要領改定にあって、その改定の重要な部分に、経験主義的教育と分類されるデューイの教育観がしっかりと入り込んでいるのは興味深いところです。

 

【「社会に開かれた教育課程」とデューイ】

新指導要領のいわば核心である「社会に開かれた教育課程」について、「学習指導要領改定の方向性(案)」では

よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協働しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む

としていますが、この点に関してデューイは「学校と社会」のなかで

社会とは、共通の線に沿い、共通の精神において、また共通の目的に関連してはたらきつつあるが故に結合されている、一定数の人々ということである。この共通の必要および目的が、思想の交換の増大ならびに共感の統一の増進を要求するのである。こんにちの学校が自然な社会単位として自らを組織することができない根本的理由は、まさしくこの共通の、生産的な活動という要素が欠けているからである。運動場では、遊戯や競技の間に、社会的組織が、自発的に、不可避に、つくられている。・・・(中略)・・・ところが、教室では、社会的組織についてこのような動機も接合力も欠けている。倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境のなかで、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。 

と述べ、新学習指導要領とおなじ問題意識を共有しています。

デューイは更に、教室に共通の必要および目的を持ち込む手段として木工・金工・編物・裁縫・料理などの作業を重視し、それらが学校生活の各局面で有効に活用された場合に子どもたちの社会的態度にあらわれる変化について、以下のように述べています。

たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない。・・・(中略)・・・じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである。・・・(中略)・・・活動的な作業がおこなわれているところでは、すべてこれらの事情は一変する。そこでは、他の者に助力することは、助力される者の力をかえって貧しくするような一種の慈善ではなくて、たんに助力される者の力を解放し、衝動を推進する援助であるにすぎない。自由なコミュニケイションの精神、観念と提示と結果・いいかえれば以前の経験の成功ならびに失敗を交換するという精神が、復誦の基調となるのである。

東葛中学での課題に取り組む長女の姿をみて感じた、「一人で完結させない学び」の意図、精神がまさにそこにあるような気がするのですがいかがでしょうか?

そして東葛中の適性検査にもまさに、学びを社会との関連のなかで行う姿勢をもつ子どもたちを選びたいという意図を感じます。そして適性検査がそのような意図で行われているとすれば、それはとても適切なことだと考えます。東葛中で行われている授業がまさに、「よりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協力しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む」という目的意識がはっきりと感じられる内容になっていると感じるからです。

 

千葉県の適性検査が求める人物像、東葛中の授業(あくまで私が触れうる限りでの推測にすぎませんが)、そして今回の学習指導要領の改定が示唆しているこれからの20年間が教育に求めるもの。それらの底流をながれる(と私が勝手に思い込んでいる)デューイの教育論について、近年行われた学習指導要領の改定なども外観しながらご紹介しました。

 

ふだんあまりしっかりと勉強することのない教育論について、もうしばらく見て行きたいと思います。

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その2

【「対策で出来ることは半分」の意味】

最初に、「対策で出来ることは半分」という言葉の意味について私の考えを明確にしたいと思います。

 

まず、

 

千葉・東葛中適性検査では、一般的な私立中学入試よりも「ものの考え方や、身の周りにある社会との接点への関心、自分を客観的に見つめ直すことのできる視点」が重要であり、それを養うために「自分とは異なる視点、考え方を持つ人との対話を通じた論理力・思考力の訓練」の重要性、寄与度が高い。

 

 という事は明確に言えると考えています。

 

但しそれは、

 

千葉・東葛中受検に合格するためには幼少からの家庭教育と、その結果としてのお子さんの能力・資質が決定的に重要で、たかだか2年程度の対策・努力でカバーできるものではない。即ち、受検の前から、「受かる子」、「受からない子」はある程度決まってしまっている。

 

ということでは決してないと考えています(そしてこれは、東葛中受検に関する私の一貫した、譲れない考え方です)。

 

【親が子供を伸ばせる可能性が半分もある!】

小学5年生から受検対策に取り組むとして2年間。この時期のお子さんは伸び盛りで、対策を通じて触れる問題、文章、テーマ、図表はお子さんの関心を、暗記・解法習得型の自己完結的な勉強から、問題解決・表現型の相互作用的な勉強へと開く大きなチャンスだと考えます。

 

別に幼児教育に取り組んだり、特別な訓練をしたりする必要はなくて、受検対策に取り組みながら子供と向き合う時間を増やし、親御さんご自身のモノの見方をお子さんにぶつけて刺激を与えてあげれば良いだけだと考えます。

 

そしてお子さんがこれから取り組もうとする適性検査問題で扱われるテーマは、親御さんと共有し、取り組むのにうってつけなのです。

 

「対策でできることは半分」と捉えるよりもむしろ、「親が子供を伸ばせる余地が半分もある」と捉え、受検対策という特別な時間を利用してお子さんとのコミュニケーションを増やしてみてはいかがでしょうか?

 

【文系総合問題対策で取り組んだテーマ】

 文系総合問題対策は基本的には塾にお任せし、私は長女が家で独習を行っている際に「解答例にはこう書いてあるけど、自分の解答でも良いか?」とか「解答例にはこう書いてあるけど、こんな考え方もあるのではないか?」といった質問に答えた程度で、長女が取り組んだ対策の全部を把握しているわけではないのですが、長女が文系総合問題対策で取り組んだテーマは、

 

食料自給率、人口問題、環境問題、二酸化炭素排出量、輸送・交通、日本の林業、電気・発電、昼間人口と夜間人口、ごみ問題、情報について、生乳生産量と地域、バイオガソリン、フードマイレージ、社会・生活の変化と大学進学、バーチャルウオーター、医療問題、自動車の生産

 

 と、私たちの仕事や生活に関わりのある事柄ばかりです。

 子供とのコミュニケーションをとるのにうってつけと言えるのではないでしょうか?

 

池上彰になる必要はなく、大人の見方をぶつけてあげれば良い】

 別に池上彰さんのように、時事問題の背景を鮮やかに整理したり、正しい知識を即答することが求められているわけではないという点に気をつけましょう。

 

上記のように考えてしまうと、子供からの質問がプレッシャーとなって対応するのが億劫になり、逆に子供からの質問を避けるようになってしまいます。Wikipediaやニュースサイト、ブログなど、インターネットで関連するサイトを探して難しい言葉を言い換えてあげたり、ご自身のお仕事を通じた経験、感想を交えながら一緒に考えてあげるだけで良いのです。

 

社会で働いたり、家計をやりくりした経験がなく、これからそうなるために専ら知識や知恵を蓄える段階にあるお子さんと、すでに蓄えた知識や知恵を使って変化する環境にに対応し、行動していかなければならない大人とでは上記のようなテーマの受け取り方や考え方に違いがあります。

 

上記のようなテーマに関連して親御さんのお仕事まわりや生活でどのような影響、変化があったのかを話してあげるだけで、お子さんのモノの見方に広がりが生まれ、より深く考える姿勢を身につけてくれます。そしてそのちょっとした知見の広がりが、伸び盛りのお子さんに大きな成果をもたらすと私は考えています。

 

【記述演習で取り組んだ文章】

塾では、文系総合問題対策とは別に、二次検査も見据えた記述問題演習に取り組んでいました。文章を読み、簡単な読解問題に答えた後、400〜500字程度の作文問題を解く形式でした。

 

以下は、記述問題演習で取り上げられた文章です。

 

加藤秀俊「取材学 探求の技法」中央公論新社

田中優子「グローバリゼーションの中の江戸」岩波ジュニア新書

及川和男「森は呼んでいる」

池内了「私のエネルギー論」

高田宏「森が消えるとき」

藤倉良「エコ論争の真贋」

日高敏隆「人間はどこまで動物か」

松沢哲郎「想像するちから」

正高信男「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」

川端裕人「てのひらの中の宇宙」

小川洋子博士の愛した数式

外山滋比古「わが子に伝える『絶対語感』」

外山滋比古「ことばの教養」

清水義範「行儀よくしろ」

森本哲郎「日本語 表と裏」

中西進「日本人の忘れもの」

五木寛之「こころ・と・からだ」

俵万智「りんごの涙」

村上龍13歳のハローワーク

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」

田中修「植物のあっぱれな生き方」

立川昭二「『気』の日本人」

稲垣栄洋「雑草は踏まれても諦めない」

最相葉月「特別授業3.11君たちはどう生きるか

木下是雄「理科系の作文技術」

養老孟司「メッセージのメッセージ」

山崎充哲「タマゾン川 多摩川でいのちを考える」

福井謙一「学問の創造」

羽生善治「大局観」

 

文系総合問題で扱われるテーマともリンクした、素晴らしい書き手による文章が厳選されており、大人が読んでみても非常に興味深い文章です。厳選された文章の、しかもエッセンスの部分が使われているため、この記述問題演習はファイルに保存してありますが、これも、お子さんとコミュニケーションをとるのに最良の素材だと考えます。

 

【まとめ】

東葛中適性検査対策、とりわけ文系総合問題や二次検査の作文問題で取り上げられるテーマ、教材は親御さんの仕事や生活とも関わりの深い問題ばかりで、しかも良質のテキストが揃っています。

 

東葛中受検は決して、受検前から、「受かる子」、「受からない子」が決まってしまっているようなものではありません。

 

「対策で出来ることは半分」という言葉は「親が子供を伸ばせる可能性が半分もある!」という言葉に捉え直して、適性検査対策に取り組む期間を、良質な教材を媒介に子供とのコミュニケーションを増やすチャンスに変えることが重要だと考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その1

既に何度か触れさせていただいた「誉田進学塾」。

千葉市を本拠地としており、東葛地区から通うのは難しいのですが、千葉県適性検査指導にあたっての当進学塾の理念・哲学をとても尊敬しています。

 

そんな「誉田進学塾」のホームページで以下のような文章に出会いました。

 

以下、引用します。

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「学校の勉強はあてにならない」とか「何をやらせたらいいですか」というようなご質問を受けることが多々ありますが、わたしは、千葉中対策を10年続けてきた感触からすると、この質問にちょっと違和感をおぼえます。学校生活からしか学べないことは多く、行事や役割、集団生活そのもの自体、千葉中で求められる力に直結しています。「何をやらせたらいいか」と子ども自身に何かをやらせようとする前に、どれだけ子どもとの接点を多くするかを考えるべきです。勉強量がいくら多くても、大人との会話量が少ない子どもは、適性検査には向きません。
 
開校に合わせて取り組んできた千葉中対策特別講座は、手前味噌ですが、他のどんなプログラムよりも適性検査突破に近づくものだと自負しています。でも、それでも、対策でできることは、適性検査が求めていることの半分でしかありません。あとの半分は、「対策学習」ではなく、日々の生活や、どんな人物に成長しているかということなので。
#######

 

TOP-S(千葉県適性検査対策模試)が非公開化されたために触れる機会がなくなってしまいましたが、その問題の得点分布と採点基準の再現性は素晴らしく、記述問題の添削には物凄い価値があると感じました。

 

このように千葉県適性検査を分析し尽くしている当塾でさえ、「対策学習」で出来ることは半分と言い、日々の生活や大人との会話を通じた「人間的な成長」が重要と説いています。

 

これまで適性検査における理系総合問題対策を中心に書いて来ましたが、以降「長女との対話」に焦点を当てた振り返りを行ってみたいと思います。

 

 

 

東葛中高の六年間に望むこと

東葛中に入ったは良いが、果たしてその効果はどうなのか?

 

教科によっては教え方が独特(ある意味のんびり)で、高校受験に向けて一年生からバリバリ勉強している公立中、大学受験を見据えて先取り学習を行っている有名私立中の子達に大きく差をつけられてしまうのではないか?

 

東葛中受検を検討されている、あるいは既に東葛中に通うお子さんを持つ親御さんの中には、このような不安を抱えていらっしゃる方も少なからずおられることかと思います。

 

そのような不安をネットでのやや偏向した書き込みがさらに煽り立てます...

 

最近のゆず母さんの記事はそのような不安を持つ親御さんのお気持ちに応えようとする内容のものでした(お互い精いっぱい東葛中生、東葛中受検生を応援しましょう!)。

 

私自身は冒頭書いた事柄について全く不安に思っていません。特に、

(1)高校受験に向けてバリバリ勉強している

(2)大学受験を見据えて先取り学習をしている

という点については全く関心がありません。

 

【高校受験にむけてバリバリ?】

高校進学時に再受験を行う必要のない中高一貫校である東葛中の最大の特徴は、

「高校受験をしなくても良いこと」

なのですから、

「高校受験のためにフォーマット化された」

勉強なんてバリバリする必要はありません。

 

むしろ6年間というまとまった時間を使って、「高校受験」という中間目標が存在する場合には出来ない「ムダな勉強」をいっぱいしておいて欲しいわけです。

 

【大学受験に向けて先取り?】

「大学受験に向けた先取り学習」と書くと一見、中高一貫教育にしか出来ない事をしっかりやってくれているように聞こえますが、大学受験って6年間も面倒見てもらわなければ上手く行かないものでしょうか?

 

私は高校3年間に、せいぜい浪人の1年間が加われば十分だと考えています。

 

確かに浪人してしまうと余計にお金がかかってしまいますが、「現役ストレートでない」事がその先の人生を不利にするなんてことは私が見聞きしてきた限りありません。

 

私自身、会社入りたての頃に新卒のリクルーターをやっておおいに感じた事ですが、一年や二年そこらの浪人・留年なんて選ぶ側にとってなんてことはありません。時間がかかったなりに得ているものがあればそれでいいのです。

 

【勉強を自己完結させない授業】

長女の授業参観や学園祭を見に行ったことはありませんが、長女が取り組む課題や宿題を観察すると、「勉強を自己完結させない」ことが特徴の一つであることに気付かされます。

 

つまり、グループワークや、クラスでの発表を前提とした「アクティブ・ラーニング」形式の課題が多いのです。

 

そのような課題に「範囲」なんてありません。長女は発表のために時には高校・大学で習うような事柄を理解する必要がありますし、それを中学一年生にも分かるように説明しなければなりません。

 

自己完結的に決まった範囲の知識を溜め込むのではなく、仲間との協働の中で役割分担に応じて自分で情報を集め、咀嚼し、伝える相手の顔を見ながら効果的な方法を選んで伝えて行く。

 

そしてそれは「先取り」ということではありません。

 

そもそも「先取り」って何でしょう?「先取り」という言葉は学習の範囲が予め決まってしまっているような窮屈な環境で初めて生まれてくるものではないでしょうか。

 

中高一貫校と中だるみ】

私の通った学校含め中高一貫校には「中だるみ」という言葉があり、中学二年生後半から高校二年生前半位までの時期は皆、本当に勉強をしません。

 

その中で所謂難関大学や国公立の医学部に合格するような子たちがその「中だるみ」の時期に計画的、効率的に勉強をしてきた子かと言うとやはりそうでもないと言うのが、限られた私の経験に基づく考えです。

 

私の通った学校も御多分に漏れず、高校入試(高校受験で入ってくる生徒が1/4ほど)で偏差値がグンと上がります。

 

中学入学組が中だるみでボーっとしている間に、高校入学組はしっかり勉強して入学してきているわけです。

 

それでも、いわゆる難関大学に進学する子の大半を高校からの進学組が占めているかと言うとそうではなくて、逆に超難関に進学する子は、「中だるみ」で中学時代弛緩しきっていた中学入学組がほとんどでした。

 

これは個人差のある話ですが、そういう子は中だるみからの切り替わりもメリハリが効いていて、高校二年生の夏休み前くらいから顔つきが変わってきます。

 

・高校から付き合い始めた彼女が高校入学組で、彼女に追いつきたくて勉強を一生懸命やるようになった

・将来医者になりたいと考えたが、私大医学部の学費は出してもらえないので、国公立大医学部を目指すしかなく、一念発起した。

 

きっかけはいろいろですが、この時期に立ち上がった子達はしっかりと目標をクリアしている子が多いのです。

 

【ムダな勉強】

上述した事柄から思うのは、本人にシッカリした目標と動機があれば、大学受験のためだけに特化した勉強を行う時期は正味三年もあれば十分だということです。

 

であれば、それ以外の時間は多いにムダな勉強をしておいて欲しいわけです。「そんなのテストに出ないよ!」っていう勉強を、自分の興味に従って追求する。

 

例えば私の場合、中学二年生から高校一年生にかけて、部活とは別に、ダンジョンズ&ドラゴンズというロール・プレイング・ゲームにはまりました。

ダンジョンズ&ドラゴンズ - Wikipedia

 

ロール・プレイング・ゲームと言ってもそれはドラゴンクエストのようなテレビゲームではなく、世界設定と細々としたルールだけが決められていて、ゲームそのものはダンジョン・マスターという「ストーリーテラー」がそれらの設定・ルールを用いて自分で作り出す、一種のボードゲームなのです。

 

当時は輸入玩具店にしか置いてなくて、入門編を卒業してより発展的なレベルへ進むためのルールブックは英語で書かれた原書を読むしかありませんでした。

 

先取り学習なんて言わなくても、腕の良いダンジョン・マスターになるために、みなその原書を辞書を引き引き読みこなして行くわけです。

 

また、ダンジョン・マスターにはプレーヤーを惹きつけるストーリーの創造と、そのストーリーを伝える巧みな話術、プレーヤーのレベルに合わせた負荷(冒険)を適切に配置する計算力が求められます。

 

腕の良いダンジョン・マスターになるためには、リアリティのある世界設定が重要で、近年映画化されて話題となった「指輪物語」を読んだり、百科事典で西洋の様々な鎧・兜や武器について調べたりしました。

 

腕の良いダンジョン・マスターの見返りは何か?それは昼休み、食堂のあちこちで開かれるロール・プレイング・ゲームのブースに人だかりを作る事でした。

 

余談になりますが、私たちの世代にとってキング原作の映画、「スタンド・バイ・ミー」は特別な郷愁を誘う映画の一つでしょう。

スタンド・バイ・ミー - Wikipedia

 

映画の中には想像力豊かで物語を紡ぎ出す才能に恵まれたゴーディという少年が登場し、家庭環境の複雑な少年4人組の中でちょっとした時間に皆を想像力の草原にいざない、日常の鬱屈や将来への不安、恐怖から解き放つ「ストーリー・テラー」の役回りを演じます。

 

私は想像力や知力のこのような使い方、寄り添い方にとても深い憧れと、畏敬の念を感じるのです。

 

映画の中でゴーディは、リバーフェニックス演じるクリスから「物書きの才能を伸ばすように」と励まされ、長じて作家になります。後ほど「長い付き合い」の項でも触れますが、普段の表面的な付き合いから一歩踏み込んだ関係性の中で得られた、些細だけど手応えのある感触は、「中だるみ」から巣立っていく際の踏石として重要な役割を果たしているように思います。

 

閑話休題

ダンジョン・マスターにも様々なタイプがいて、デザインセンスを生かしてカッコいい武器、鎧、兜のリストやワクワクするような古地図を作る子、「剣と魔法の世界」を高校生活に持ち込んで、文才を生かして今で言うティーンズ向け小説のような世界観を作り上げる子。ダンジョンズ&ドラゴンズが描く「剣と魔法の世界」のディテールにこだわる本格派。

 

今から振り返って考えてみると、自分はこの遊びを通じて、今長女がやっている「アクティブ.・ラーニング」をやっていたんだなと考えます。

 

つまり、伝えるために学習指導要領にとらわれず学び、伝えたい相手の顔を見ながら効果的な仕掛けを配置しつつ語り、プレーヤーとの共同作業をしながら同じ丸テーブルを囲む時間を盛り上げて行く。

 

こんな「ムダな勉強」で溜め込んだ贅肉が、その後の受験勉強を乗り切る際の、少しばかりの知的余裕とエネルギーを与えてくれたように思います。

 

【長い付き合い】

それから、「ダンジョン・マスターが見せた意外な文才」のような部分を認め合うこと。これはとても大事な事であったと考えます。

 

学校での授業や運動、組織行動を中心とする部活動、これらの局面でうかがい知れるものは人間の能力・活動のほんの一面に過ぎません。

 

その向こう側に広がる様々な可能性の一端に触れ、認め合うことが出来たことは素晴らしい経験です。

 

はっきりした目標と心からの動機を得て「中だるみ」から巣立っていく子たちはその瞬間、外側からは一見わかりにくい自分なりのこのような強みをテコにしていることが多いように思います(抽象的な表現ですいません)。

 

そしてこのような強みを認識していない人からすれば、その子の変貌ぶりが理解できず、拒否反応を示すか、「天才」という言葉を使って思考停止するかどちらかです。

 

でも、学校のテストや運動能力、組織行動能力(例えばブラバンなど文化系の部活で、顧問の示す課題を忠実に実行し、軍隊並みの規律行動にしっかりついていける能力を想定しています。)では窺い知れないその子の良い面をつぶさに見ている仲間たちはその子の成功方程式を理解することが出来、それは自分達にもできることかもしれないと考えることができます。

 

【成功方程式の連鎖】

そのような理解が、仲間うちの一人が目覚め、「中だるみ」から巣立っていったときに僕も、私も、と続く成功方程式の連鎖を生むような気がしてなりません。

 

中学高校の6年間は人生で最も深く相手を知りたいと願い、影響しあう6年間です。そのような6年間の付き合いの中で、表面的なスペックの奥にある可能性を認め合うこと。このような経験を是非積んでいって欲しいのです。大学受験に特化した勉強なんて正味三年あれば十分。それよりももっと大事な「ムダな勉強」を大いにやってもらいたい。

 

幸い、東葛中高にはそれを実現するのにうってつけの仲間たちが集まっています。「試験問題は学校の顔」。あれだけオリジナリティに溢れててかつチャレンジングな適正検査を堂々突破して集まってきた仲間たち。きっと素晴らしい6年間を過ごせるはずです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱点ノートの集計結果(適性検査及び長女の弱点の傾向)

以下は、昨年度受検の際に長女と作った弱点ノートを集計したものです。

弱点ノートとは、

「適性検査理系総合問題において長女が解けなかった問題で、解答を見ても理解できなかったものを集めたもの(県立千葉、東葛中についてはできる出来ないに関わらず分類を行なっています)

で、

・当該問題については一旦飛ばして先に進んでもらい、後日私が解説を行うことで時間の節約を行う。

・弱点ノートを分類・集計することで長女の苦手な問題傾向を把握する。

・後日、弱点ノートを中心に復習(①掲載問題の解答を完成しながら解法の整理定着を図る、②似た傾向の問題を集中的に解くことで苦手意識を克服する)を行うことで定着度合いの向上を図る。

 

ことを目的に作ったものです。

 

県立千葉、東葛や全国の適性検査問題の傾向を読み取ることができて面白い(例えば天体、光の反射は県立千葉、東葛で頻出の重要分野ですが、この分野については沖縄県が同様に頻出分野になっている等)ので是非ご活用ください。

 

 

https://moro241.files.wordpress.com/2017/09/e5bcb1e782b9e3838ee383bce383881.pdf

行程録 その5

最後に、二次検査でようやく登場となる、国語について。

 

【継続的な取り組みー作文、漢字、読書】

国語に関して長女が継続的に取り組んでいたのは漢字、作文、そして読書でした。

 

漢字に関しては夏休みから毎朝起きがけに20分程度、計算問題と漢字の書き取りを行うようになり、受検日まで続けていました。

 

作文に関しては、五年生から通い始めた東葛中受検コースで「作文教室」という教材を扱っており、塾の授業の中で継続的に取り組んでいました。

 

そしてこれは、対策というよりは長女の趣味ですが、長女は本が好きで、1日10時間以上勉強していた夏休みにも、読書で息抜きをしていました。受検直前の追い込みの時期には、短時間に読める星新一氏のショートショートを読んでいたようです。

 

【漢字、作文、読書の効用】

上記にも関わらず、長女が適性検査で一番苦手としていたのが実は適性検査2-2、つまり国語でした。

 

それでは上記三つはどのように役立ち、あるいは役に立たなかったのでしょうか?

 1.漢字

まず漢字ですが、東葛中適性検査の場合、漢字の書き取りのような、漢字の知識そのものを問うような問題は出題されません。

 

但し文系総合、国語共に記述問題が多く出題され、その解答の中で漢字の間違いがあったり、小学校で習う範囲の漢字がかけない(ひらがな表記)と減点の対象になるようです。

 

漢字書き取りの効果はこのように間接的なものに止まりますが地味に効いてきますので、計算問題演習と合わせて習慣づける事をお勧めします。

 

2.作文

次に作文ですが、直接的には文章の構成力の向上を通じた記述スピードアップ。つまり、自身の考えや幾つかの事柄をまとめ上げて伝える際の自分なりの文章の型の習得に伴う記述問題への対応スピードの向上。

間接的には、実際に伝えるための作業を繰り返す事で他人の文章を読む際に勘所がわかるようになる事、そしてその事を通じた読解スピードの向上。という効果があったと思います。

 

3.読書

 実は読書は私にとって長女との重要なコミュニケーションツールになっていて、長女が読んでいる十代向けの児童文学を私が読んだり、私自身読んでみて面白かった本(こちらはもっぱら大人向けの本)を長女に紹介したりする中で長女が読んでいる本は大体私も読んでいたりします。

そして、長女が作文教室で書いた作文は実は私もこっそりと読んでいたのですが、その中で感心させられたのが、好きな作家から受ける文体の影響です。

 

「ああ、こんな文章構成や接続詞の使い方、文章の結び方は長女が好きなあの作家の文章そっくりだな。」と思うことがしばしばあるわけです。

 

よく作家になる人は、「文章をよく書く人」である前に、「文章を誰よりも読む人」だと言いますが、なんとなくその意味がわかる気がします。上手な文章を書く人、印象的な文章を書ける人というのは、何よりもまず、そんな文章に数多く触れている人なわけです。

 

長女の読書はそのような形で、間接的にではありますが、作文技術の幅を広げるという観点で効果があったと考えています。何よりも、作文と相まって、無意識に好きな文体を真似て文章を書く、という楽しみに触れ得たことは、適性検査という枠を超えて、良い経験になったのではないでしょうか?

 

 4.それでも足りないもの

上記のように書くと、さも長女が国語を得意にしていたように聞こえます。実際、学校のテストや塾で定期的に受ける学力テストでは長女も国語を得意としていたのですが、適性検査、とりわけ千葉県の適性検査を想定した模試では、いつも足を引っ張っていたのです。

 

何が足りなかったのか?それを考える前に、適性検査で「どこまで求められているのか?」について考えてみましょう。

 

【解答例から類推する読解問題の要求水準】

出題者の要求水準を類推するため、平成27年度適性検査2-2における設問の解答例を見て行きます。

その前に素朴な疑問ですが、果たして市販の過去問題集に付いている解答は信用できるのでしょうか?これから解答例を頼りに出題者の題意を推し量ろうと言うのに、その解答を出版社(あるいはアルバイトの学生)が作成しているとあっては元も子もありません。

上記に対する答えは「信用して良い」ということのようです。これは誉田進学塾

誉田進学塾グループのWeb Site

が主催するTOP-Sの進学研究会で質問した際に教えていただいたのですが、いわゆる市販の過去問題集の解答は出題者側が開示する解答をそのまま掲載しているとのことでした。

以下は平成27年度千葉県適性検査2-2において出題された設問と、出題者側が開示した解答例です。

 

[設問]

雑草にとって「小さな花を咲かせること」は、どのような結果につながると筆者は考えているのでしょうか。雑草の花の咲かせ方にふれながら、書きなさい。

 

[解答例]

雑草は、小さな花を1つでもいいから、まず咲かせることで種子を残し、それが芽を出し、花を咲かせ、過酷な環境下でも命をつなぐ。また、小さな花をたくさん集めて咲かせ、大輪の花に負けない大きさにすることで、昆虫に発見されやすく、受粉の機会を増やす。このように、雑草にとって「小さな花を咲かせること」は、生き残ることやその可能性を広げるという結果につながると筆者は考えている。

 

解答例では前半部分で雑草の花の咲かせ方を文中のキーワードのコピペ、言い換えで説明した後に、「小さな花を咲かせること」がもたらす結果について下線部のようにまとめています。その意味で下線部はいわば本設問の核心部分ですが、実は下線部には本文中で使われる言葉が一語も含まれていません。

 

つまり、適正検査の国語では「文意を汲み取り、本文中にある言葉のコピペや言い換えレベルではなく、自分で適切な言葉を選んでまとめる」力まで問われているのです。

 

言葉で言ってしまうと簡単ですが、上記はとても難易度の高い要求水準です。乏しい自身の経験に照らすと、読解問題に関してこのような解答が書けるようになれば、大学受験まで十分に通用するレベルではないでしょうか?

 

【結局良質の読解問題を解くことによってしか鍛えられない】

一次検査後、長女はこれまで手付かずだった国語をどうにかするために問題集を数冊潰しましたが、千葉県適正検査対策としてはあまり役に立たなかったというのが正直なところでした。

継続的に行っていた漢字、作文、読書にしても直接的な効果は得られません。作文は自身の考えを言葉に具体化する作業ですが、なにかよほど哲学的なテーマが与えられるのでもない限り、作文で「第三者が文章によってぼんやりとイメージさせる題意を具体的な言葉にする。」に相当する作業を行うことは稀で、通常はより簡単な作業に終始していることでしょう。

読書はほとんどの場合、筆者が文章によってぼんやりとイメージさせてくれるものの余韻を楽しんで終了であり、「読書感想文を書け」とか、「この本の批評、解説を書いて欲しい」というのでない限り、そのぼんやりしたものを言葉で具体化しようとすることは稀でしょう。

結局長女の読解力の向上に役立ったのは、千葉県を中心とした良質の過去問演習と、丸付けの段階での議論(長女の解答ではなぜいけないのか?解答例以外にどのような書き方があるか?問題文の解釈の仕方など)でした。

 

過去問題演習にあたっては、千葉県適性検査の過去問題(こちらは塾の授業)、銀本、都立の過去問等を用いました。

また、独習用には以下問題集が解説も丁寧であり、参考になりました(長女も何冊か解いた問題集のうち、以下は手応えがあったようです)。同問題集は、似たような問題傾向の学校を探すためにも重宝しました。

 

 https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=1623

「とまつ式公立中高一貫校合格をつかむ作文トレーニング」