なぜ「受検」だったのか?あらためて考えてみる:その②

補題の設定】

一口に「なぜ受検だったのか?」と言われても、以下のように「受検」というワードに含まれるものが多すぎて、どのような方向から切り込んで良いのかよくわからない面があります。

受検というワードに含まれる様々な側面

  1. 良い大学、その先の良い就職など、お子さんがその後の人生をより有利に進めるための資格・条件を得る手段としての側面
  2. 受検をきっかけに、お子さんが塾や志望校の選択を行ったり、目的意識を持って学習に取り組むことで意識改革、成長機会を得るイニシエーションとしての側面
  3. 格差社会などと言われる中、お子さんの将来に客観的・平等なチャレンジの機会を与え、社会階層の固定化を防ぐ社会的装置としての側面

そこで、本題に切り込んでいく前に関連する小問を設定し、取り組む過程で得られる示唆を次に繋げていきたいと思います。

学歴に意味はない? ー日経新聞「やさしい経済学」よりー

受検の様々な側面と言いましたが、子を持つ親御さんとしてまず最初に期待するのはやはり上記1.の功利主義、実利主義的な側面でしょう。そんな期待に冷や水を浴びせるようなコラム記事が2020年4月13日付日経新聞に掲載されていました。そのコラム記事の概要は

  • 本当に有名校に入ることで子どもの人生は幸せになれるのか?米マサチューセッツ工科大学ヨシュア・アングリスト教授と記事の筆者である成田悠輔による共同研究の紹介
  • シカゴの難関有名公立高校をギリギリで合格した生徒と、ほんのわずかに点が足りず不合格となった生徒の米国版センター試験の成績を比較するという手法(自然実験)により、「有名校に進学していること」そのものが有意な効果をもたらしているかを統計学的に検証
  • 結局、両者の米国版センター試験の成績に有意な差異はみられず、有名校の生徒はその学校のおかげで成績優秀なのではなく、そもそも成績優秀な生徒が有名校に入っているだけ、という残念な結論が得られた

というものであり、

ニューヨークやボストンの有名公立高、ハーバード大やエール大のような有名私大でも、成績や収入を伸ばす効果は普通の高校・大学と大差ないという研究があります。有名校に入っても学生の未来が明るくなるとは限らないのです。

日本にはこうした分析はありません。データがない、というのが理由(言い訳?)のようです。「わが校の教育には効果あり」と信じてやまない関係者の方はぜひご一報ください。

とコラム記事は結ばれています。

(出典:https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/yasashii28/02.html

このコラム記事が提示する論点を含めた学校教育にまつわる様々なテーマについて、コラム記事の筆者である成田悠輔イエール大学助教授と「五体不満足」の乙武洋匡氏がYoutubeで対談を行なっており、(【前編】成田さん、学校って必要ですか?【成田悠輔と語る】 - YouTube;5:50〜14:00頃)その中で乙武氏は本研究結果について以下のような論点を提示しています。

  • 格差解消の装置としての教育の役割を重視している乙武氏にとってこの研究結果を楽観すれば良いのか悲観すれば良いのか判断に迷う
  • つまり「有名校への進学(学歴)が同様の能力を持つ生徒の未来に有意な影響をもたらしていない」と言う事実だけを切り取れば(有名校への進学に失敗しても)希望が持てると言う意味で喜ばしい
  • しかし、その研究の結果の裏側に、明るい未来を切り開けるような「元々能力が高く、良い環境(生育環境、親の年収)に恵まれている人たちが有名校という器に盛られているだけ」という構造があるのだとしたら格差是正という観点からはより悲観的な事実だと言える

乙武氏のこの問いに対して成田助教授は、「研究結果に対して楽観も悲観もし過ぎずに建設的に理解していくことが重要」と前置きした上で

  • 教育というのは複雑な、色々な要素の束(有名校なのかそうでないのか、そこで教えている個々の教員の質、経験年数、カリキュラム、クラスのサイズ、使用している教科書・タブレット等)である
  • その中で、一見重要に見えるものが実は大して効果を持たなかったり、また逆にこれまであまり重要とみなされていなかったものの中に実は大きな効果を持つものが含まれている可能性もある
  • 有名校の効果に関するこの研究結果は、上記絞り込みを行うための一つの重要事実が提示されたものとして受け取れば良く、絞り込んだ結果をよりよい教育の実践に繋げていけば良い

という趣旨の発言をし、「重要とみなされていなかったものの中に埋もれていた効果的な要素」として「先生の教授法の質と、結果としての教育効果のばらつきの大きさ」を挙げ、米国での効果測定、評価や教わる側の発展段階も考慮した教育の試みを例示しています。

自身の経験を踏まえた研究結果の評価

自身の経験も顧みた時、私は成田助教授の研究結果に大して驚きを感じませんでした。自身の通った学校は特に大学入試に対応し、中高一貫であることを最大限生かしたカリキュラム(例えば先取り授業やコース別クラス編成)を導入していたとはとても言い難かったし、高校に入ってからの進学指導も言ってみれば自由放任でした。

そしていわゆる難関国公立や国公立医学部に進学した子達を思い出してみるとやはり、学校の授業、課題を熱心にこなしていたというより、とにかく力が余っていて学校の授業、進路指導など全くあてにせず、例えば得意な物理については高校三年生までに大学の教養課程で使うような教科書を終えてしまっていたり、数学であれば「大学への数学」の学力コンテストに熱中していたり、大して英語が得意でもなかった私でも、ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズという輸入ボードゲームを楽しむために英語で書かれた原書を読みこなしていたりしていました。

ではそうした子どもたちを受け入れていた学校が私たちに全く影響を及ぼしていなかったかと言われればそれは違うように思います。

学校が積極的に私たちに働きかけた部分は少なかったにせよ、やはりそのような器に盛られていたが故に起きたケミカル、相乗効果というものがあったように考えるのです。

社会学者の宮台真司はその著書「14歳からの社会学」(社会や人間行動を捉えるために必要な基本的な概念装置を、中高生を想定した平易な言葉で語っており、お子さん向けにも、親御さん向けにもおすすめの一冊です)の中で、人がモノを学ぶ動機として、競争動機(勝つ喜び)、理解動機(解る喜び)に加えて、「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」を以下の意味において前者二つの動機とは一線を画す、より高次な動機として重視しています。

  • 学習行動を支えるインセンティブ(報酬)の持続性(=内発性)
  • 当該動機に基づく学習が断片の集合ではない、血肉化された知識の習得を可能にする

宮台教授の言う「感染動機」とは

直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身振り手振りやしゃべりかたまで真似してしまう

そんな学び方であり、この感染動機による学習のみが知識を血肉化できると述べています。

つまり、競争・理解動機に基づく行動は、その結果瞬間的に得られる「喜び」を求めて自ら行動を起こしているという意味で「自発的」な行動であるが、行動そのもに喜びを見出しているわけではないのに対して、強力なインフルエンサーに影響され、近づこうとして起こす行動はその行動そのものが喜びとなる「内発的」な行動であり、インフルエンサーに近づこうとして行う様々な思考実験、シミュレーションが知識を体系化すると言うのです。

感染動機という用語・概念が社会学・心理学の領域で一般的なものなのか、それとも自ら大学院生時代に小室直樹廣松渉チョムスキーと言ったインフルエンサーに出会い、感染動機に支えられて学問を修めた宮台教授の個人的な経験に基づく整理なのかはわかりませんが、私自身は、宮台教授の考え方に全面賛成です。

例えば自分自身の中高生時代についていえば、輸入玩具店や専門雑誌を通じて当時の自分には考えもつかなかった遊び(ゲームのルールだけが細かく規定されていて、そのルールを用いてゲームの世界観、シナリオ、進行を自分で作り出し、自らの話術とゲームの設定能力だけでその場を盛り上げていく)を見つけ出し、言語の壁など物ともせずのめり込んでいくクラスメートや、物理・数学の演繹的手法や美しさに敬意を払い、受験数学的なHow toの寄せ集めを軽蔑して自分が今取り組んでいる定理や問題の意味を深く理解しようとする部活の仲間に非常に大きな影響を受け、まさに内発的にその人たちに近づいていく課程でいろいろなものを身につけていった記憶があります。

中高生というと振り返ってみるとなぜあんなに思い詰めたのかと思うほどに先輩や同級生、好きな女の子に憧れてロールモデルとして崇拝し、すこしでも近づこうとした時代だったように思います。

思考の柔軟性があって吸収力と馬力にあふれた人生の一時期に効果的な学びを行えるよう、そんな一時期に感染動機が発動するようタイマーが設定されているのではないでしょうか?

以上を踏まえると、確かに有名校が果たす諸機能は実は大したことがなかったり、「有名校」という属性とは全く独立に語られるべきものなのかもしれませんが、有名校が提供している場には、先ほどのインフルエンサーに出会える確率の大きさなどの面でそれなりの意味があるのではないかと考えます。

補題の考察】

「高確率でインフルエンサーに出会える場」として有名校の意義を捉えることができるとして、一方で先ほどの研究結果(少なくとも米国版センター試験の結果に有名校は有意な影響を与えていないように見える)が認められる時、我々はこの結果をどのように受け入れれば良いのでしょうか?

先ほどのアングリスト・成田論文を読んだわけではないため、想像でしか語れないのですが、一口に「米国版センター試験の結果に有名校は有意な影響を与えていないように見える」といっても、その結論がどのような比較レベルで語られているかには注意が必要です。

例えばそれが有名校出身受験者とぎりぎりで有名校に入れなかった普通校受験者の米国版センター試験の得点分布の差異の検定という形でなされた場合、それが分布の平均値のみについて行われた結果なのか、それとももっと高次のモーメント(平均値の周りでの得点分布の散らばり具合<分散>や、分布の対称性<歪度>、平均値から遠く離れた部分の散らばり具合<尖度>)についても考慮された上での結果なのかによってインプリケーションは異なってくるはずです。

つまり、両者の得点分布はその平均値については有意な差異がないが、分散については有意な差があり、有名校では分散が普通校に対して有意に小さい(つまり、周りにインフルエンサーがたくさんいて、常に刺激しあっているので落伍するものが少なく、分布が平均値の周りにギュッと集まっている)など...

上記論点についてはアングリスト・成田論文をきちんと読んでから言及することにして一旦その結果を受け入れた場合に、その背後にはどのような理由が考えられるでしょうか?

私は今のところ、以下のように考えています。

  1. 有名校でなくとも、一定レベルの意欲・能力を持つ生徒に影響を与えうるインフルエンサーは、その学校の偏差値にかかわらず一定数存在する
  2. 実質的には有名校の合格者と変わらない到達度を持つ生徒は、物理的に近いところにインフルエンサーが存在しなくとも、そのインフルエンサーの代替になるものにアクセスしたり見つけ出したりする手段・習慣または生活様式のようなものを持っている
大学年収ランキングTop30校と千葉県第2・第3学区主要高校における合格率

上記1、2はともに自身の経験に基づく直感ですが、実際にはどうでしょうか?

昨年長男が地元の公立中学へ進学した際、千葉県の高校受験事情に詳しくなかった私は、「みんなの高校情報」(https://www.minkou.jp/hischool/exam/chiba/deviation/)の進学実績データや「DIAMOND online」の出身大学別年収ランキングTop30(https://diamond.jp/articles/-/264142?page=2)などを用いてあれこれ分析し、「塾は行かない」と言い張る長男に対して「強制塾通い」などの強権発動を行う閾値、ルール作りを行いました。

そのルールはまさに上記1の視点に基づいたものであり、簡単に言えば

  • 基本は大学受験までに本人が自分でその道を選択するまで待つ
  • 但しインフルエンサーが周りに全くいないとなると”その道を選択する確率”そのものも0になってしまうので、インフルエンサーをある程度期待できる高校には進学してもらう必要がある
  • よって、「インフルエンサーをある程度期待できる高校」に進学できる程度の目標順位を定め、その順位を割り込んだ場合「休部、強制塾通い」等の強権発動を行うことを長男と事前に宣言しておく

というものでした。

この目標順位を決めるために行った分析の結果が、「みんなの高校情報」と「出身大学別年収ランキングTop30」を用いた以下表・グラフの作成です。

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県立高校別基礎データ(出典:みんなの高校情報、DIAMOND onlineより筆者作成) 

 

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県立高校偏差値とTop30合格率の関係(出典:みんなの高校情報、DIAMOND onlineより筆者作成)

表・グラフに登場する「クラス順位換算」は各県立高校の偏差値から標準正規分布のZスコアを逆算してパーセンタイル値(上位何パーセントに該当するのかを表す数値)を求め、その値にクラスの想定人数(ここでは1クラス40名)を掛けて算出しています。

また、「Top30大学合格率」は単純にみんなの高校情報から取得した各高校の大学合格者合計人数に占めるTop30大学合格者数の割合を求めたものですので、大学受験をしない人も分母に含めた合格率ではありませんし、ましてや複数学部、大学への重複計上の除外や現役・浪人の区別などもない粗々ベースのものであることに注意が必要ですが、以下に述べるようにいくつかの重要なインプリケーションを引き出すことができます。

表・グラフから得られるインプリケーション

(1)インフルエンサーをある程度期待できる高校の境界線

数多ある条件を捨象し、表・グラフに現れている数値だけを基準にすると、偏差値55未満の高校(Top30合格率0〜1%)は厳しいと言わざるを得ません、合格者数が募集人数より有意に少なく、大学進学を選択しない人が相応に含まれていることも考え合わせると、実質的なTop30合格率は0%台になってしまいそうです。

偏差値55以上になってくるとTop30合格率は多少のばらつきはあるものの5%程度まで浮揚してきます。県立高校の募集人数が320人程度、1クラス40と考えると学年で十数名、クラスにも二名ほどインフルエンサーがいることになりますので、感度の高い子にとってはそれなりにインフルエンサーがいると考えることができます。

(2)偏差値とTop30合格率の関係が無相関に見える偏差値55〜60前半ゾーン

偏差値とTop30合格率だけをみると偏差値55〜60前半ゾーンについては偏差値とTop30合格率の間に全く相関がなく、一見「このゾーンについては偏差値に一喜一憂してもしょうがない」と解釈できるようにも見えます。

しかし、偏差値、Top30合格率以外の数値にも目を凝らすと、二つの数値だけでは見えない以下のような質的な差異を想像することができます

募集人数と大学合格者合計人数(サンプル数)の関係から見えてくるもの

サンプル数と募集人数の関係に着目すると、サンプル数(大学合格者数)が募集人数を上回るのは偏差値59以上からであり、当該偏差値水準までは大学進学をそもそも志向しない人たちが相当数含まれていることが示唆されます。これは実質的なTop30合格率を引き下げる方向に作用しますので、「実質的なTop30合格率で測れば、やはり偏差値とTop30合格率に相関関係が見られる」と言うことになります。

ただし一方で、大学進学を志す人たちの中でのTop30合格率は偏差値55〜60前半ゾーンにおいては大した違いはないとも言うことができるかもしれません。そしてそうだとすればそれは、「一定レベルの意欲・能力を持つ生徒に影響を与えうるインフルエンサーは、その学校の偏差値にかかわらず一定数存在する」という私自身の経験則をある程度裏付けているようにも思えます。

また、募集人数に対するサンプル数の倍率は偏差値に比例して上昇し、その傾向は偏差値60前半ゾーンを超えるとますます強まるようにも見えます。

これは、①難関大学への合格を志望する浪人合格者、②志望大学への複数学部合格者、③複数大学への合格者、の存在を示唆しますが、いずれもTop30合格率の質的な側面を表しているのではないでしょうか?

(3)十分なインフルエンサーの数を期待できるのは偏差値60半ばか?

偏差値60半ば(国府台、鎌ヶ谷、柏南高校に該当する偏差値64)まで来ると、Top30合格率は10%台となり、学年に三十数名、クラスにも五名弱のインフルエンサーに恵まれることを示唆しますので、大学受験までに本人が自分でその道を選択するまで待つにはかなり安心感のある環境と言うことができます。

結局私自身、先述した目標順位の決定に際して、今後の努力次第でこのレベル(偏差値60半ば)が狙える偏差値61、クラスで5番以内を目標順位とすることにしました。

【一連の考察・分析を振り返って】

以上、「有名校に入っても学生の未来が明るくなるとは限らない」ことを示すアングリスト・成田論文の紹介に始まって、学習行動を支える動機付けとして宮台教授が重視する「感染動機」の代理変数としての「Top30合格率」を中心に据えた私自身の分析をご紹介しました。

しかし一方で、このような分析努力を嘲笑うかのような事実もあります。

2019年末に日経新聞に連載された「安い日本」シリーズ記事をベースに書き下ろされ、2021年に出版された中藤玲氏の「安いニッポン ー価格が示す停滞ー」には以下のような記述があります。

同じ米住宅都市開発省の2020年の最新版では、年収13万9400ドルが(サンフランシスコの)低所得者に分類されており、...(筆者略)...21年1月の為替(約103円)でも約1400万円を大きく超える計算だ。

これまで年収Top30への合格率をベースにあれこれ細かい分析をしてきましたが、そもそも日本の年収Top30大学の平均年収とはそもそもどのような水準だったでしょうか?

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出身大学別年収Top5(45歳時点、出典:DIAMOND online)

実に、45歳時点でトップを走る一橋大学でさえその想定年収は1,189.8万円、米住宅都市開発省が認定するサンフランシスコの低所得者分類に満たないわけです。

おそらくこのブログを読んでくださる親御さんはお子さんの将来を考え、戦略的にお子さんの将来を考える、いわゆる「意識高い系」の親御さんが多数を占めていると推察します。

しかし、いくら狭い日本の中での競争を意識し、その勝者になったところでそれは、グローバルな勝ち組の標準に照らせば「低所得者」の水準をかろうじて達成するに過ぎないわけです。

その意味で、功利・実利主義的な価値観に照らすならば、日本の受検・受験競争の勝者を志向している時点で私たちは頭の悪い、非効率なストラテジー固執しているオールド・タイプとの烙印を押されてもしょうがないということになります。

次回の記事では、アングリスト・成田論文をしっかりと読みこなした上での所見、ならびに上記事実をしっかりと受け入れたうえでの受検のリーズニング(論拠付け)に挑戦してみたいと思います。