エッセイ・ポートフォリオについて

長女が受検を行った際、後から振り返って「やっておけばよかった」と考えたのがこの、「エッセイ・ポートフォリオ」という試みでした。

 

機関投資家や運用会社による運用の現場では、彼ら投資家が保有するポートフォリオ(保有する株式や債券等の集まり)全体の、様々な市場変動要因(株価の下落、物価・金利の上昇、対ドル為替レートの上昇等)に対する感応度を用いてポートフォリオの変動特性やリスク量をチェックするようです。

 

お子さんご自身を「ポートフォリオ」に見立てると、与えられたテーマに沿って書かれた作文や、適性検査に典型的な、異なる二つの意見について自身の経験を交えて自身の考えを述べる事が求められる記述試験への解答はまさに「様々な市場要因に対する感応度」に該当するように思います。

 

「自分のことは自分が良く知っている」と言いますが、実際には、自分を理解するのはとても難しい事です。

 

時間の経過やその日の気分によっても変わりますし、日常的・具体的な問いに対してある程度明確に答えられても、「そのような答えを発する自分そのものは何者か?」と問われると、答えに窮してしまう方は多いのではないのでしょうか?

 

公立中高一貫校受検は、とりわけ「自分と向き合い、考えること」が要求される場面が多いように感じます。東葛中の場合には志願理由書の提出やグループ面接での発言が求められますし、筆記試験でも「どこかでインプットした知識を披露して終わり」とは異なる形で記述問題が出題されます。

 

そしてこれは、公立中高一貫校受検の良い面でもあるのではないでしょうか?

 

私は自身の私立中学受験経験のいびつさ、つまり、「普段の生活から湧いて出る問題意識や興味から乖離した、そのくせ同い年の普通の子は学ばないような瑣末な知識を、『偏差値の高い学校に入る』という目標のためだけに詰め込んで行くことのいびつさ」を大人になってようやく自覚しました。

 

そのような受験経験の中で自分を見つめ直す、ましてや自分が今やっていることの意味を見つめ直すことなどなかったように思います。

 

それはその方が効率が良いし、もともと「日常の感覚から乖離した仮想現実空間でのゲーム」という感覚が強いので、そこに意味を求めるなんて発想が起こりえないわけです。

 

おそらく「ドラゴンクエスト」の世界観に意味を問いながらゲームを続ける人がいないのと同じなのだと思います。

 

一方で、適性検査の方は、いちいち自分の経験を踏まえつつ2つの異なる考え方に対して自分の見解を論じなければなりませんし、「工程録 その4」で引き合いに出したように、日本の林業について暗記していた知識を記述するのでは飽き足らず、林業をより良くするための意見を書かされます。

 

さらに、実際には筆記試験の出来で合否がほとんど決まってしまうはずなのに、2次検査までに志願理由書なんてものを出さないといけないし、適当に片付けようと思ったら、塾の先生からしつこく何度も書き直しを迫られるわけです。

 

つまり、適性検査対応を通じて自身への問い、即ち「様々な市場変動」がぶつけられ、その問いに対する自身の答え、即ち「市場変動への感応度」を確認する事が出来るのです。

 

これらを集めていけば、立派な「ポートフォリオ診断書」が出来上がるのではないでしょうか?そしてそれは適性検査2次検査の筆記問題や志願理由書の作成、グループ面接にも役立つのではないでしょうか?

 

長女の際には時間が無くてできませんでしたが、小学5年生で作文教室を始めたあたりからこのエッセイ・ポートフォリオを作っていく作業を意識されると、2年間で得られるものは大きいのではないかと考えます。

 

そしてそれはそのままお子さんの「受検奮闘記」にもなるのではないでしょうか?

 

最後に、「様々な問いに対する自分自身の答えを確認していく事で自分を知る、あるいは自分を確立して行く」という視点で書かれた興味深いワークブックを紹介します。

 

「読書を通じた長女とのコミュニケーション」でご紹介した藤原和博氏が中学校で実践されていた「200字意見文トレーニング」です。

 

https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/wakaba-sakubun/entry-11573282057.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その4

【本を通じた長女との対話】

長女も小学生高学年になってくるとなかなか親と会話を持たなくなってきます。

 

適性検査の勉強を見てやる時間はその意味で長女との対話を行う貴重な機会でした。学校や塾での出来事はなかなか話をしてくれない長女も、適性検査の過去問や対策問題については自分の考えをぶつけてくれます。

 

その意味で適性検査対策は長女とのコミュニケーション形成にとても貢献してくれたのですが、もう一つ、コミュニケーションを取るために試していたことがありました。

 

それが、「本を通じた長女との対話」でした。簡単に言ってしまえば、

 

書店で見つけたり、知人に勧められて読んでみて面白かった本を何気なく長女にも読ませ、簡単な感想を交わす。

 

というものでした。

 

【見え見えな手段で哀れみを誘う】

「何気なく長女にも読ませ」というところがなかなか難しいのですが、私は「長女が勉強に使う居間のテーブルに無造作に置いておく」という手段をよく使いました。

 

ハッキリ言って「見え見え」なのですが、それでも長女に「読んでみなさい」というよりはきっとはるかにマシなのです。

「お父さんまた見え見えなことしてる」という哀れみの感情に加えて、本の装丁やタイトルから少しでも興味を感じてくれれば、かなりな確率で手にとってもらえます。

 

そして読み終わった頃合いに、「登場人物の中で誰が一番好き?」とか、「あの場面のあの人の行動ってどう思う?」とか、一言二言で答えられるような感想を聞くだけでも、なんとなく長女のモノの考え方、感じ方が伝わってきますし、本人に他人にぶつけてみたい考え方が湧いていればポツポツと話してくれます。

 

でもそれも、「お父さんも読んだんだ、仲間だね。」という気持ちがないとダメなので、親御さんご自身も読んでいらっしゃることが大前提です。

 

以下は、こんな形で長女との会話に使った本を、簡単なコメントを添えて紹介します。

 

藤原和博

・はじめて哲学する本

リクルートメディアファクトリーといった「クリエイティブ系」ビジネスの最前線で経験を積み、杉並区の中学校の校長に就任した著者による「哲学する本」です。

哲学というのはカントやシュレディンガーのこ難しい本を読んで難しい言葉を操ることではなくて、身近にある「何故?」に一歩深く踏み込んでみることなんだ、ということがわかる本です。

小学5年生の頃に紹介したところ長女はえらく気に入り、同時にこれまでよりちょっと扱いにくい子にもなりました。

担任の先生にはなんでもハイハイと言うことを聞く良い子から、「なぜ先生はこういう事を言うのか?」を考えるちょっと嫌な子になったかもしれません。

 

三浦しをん

・風が強く吹いている

とにかく楽しめる、一級のエンターテイメント作品です。タスキをつなぐ個性あふれる10人のメンバーの中で「誰が好き?」と聞いてみてください。その答えにきっと、「ほほー」と頷かざるを得ません。

 

佐藤多佳子

サマータイム

・黄色い目の魚

・一瞬の風になれ

性的描写などもあって若干読ませるのをためらいましたが、長女は割とその手のものも堂々と受け止めてしまうので、読ませてしまいました。その辺はお子さんによって受け止め方が違うので、お子さんに読ませる前に親御さん自身、実際に読んで確認する必要はあると思います。

長女は絵を描くのが好きなのですが、「黄色い目の魚」にはその辺りの描写などもあって気に入ったようです。

「一瞬の風になれ」は3冊ものの結構な長編でしたが、一気に読み上げていました。

 

市川朔久子

・夜の美容院

・ABC!曙第二中学校放送部

・小やぎのかんむり

この作家の作品に登場するのは皆、親や同級生の仲間の何気ない一言に深く傷つけられ、その瞬間から何かを失ってしまった女の子です。

受検への親の手助けは逆に言えば親の期待感の投げかけでもあります。

長女は物語の中で言葉を失ってしまったり、体が発するSOSを無意識に受け止めきれなくなる女の子に深く共感したようで、「この作家が描く女の子が好き」と言っていました。

 

上橋菜穂子

・鹿の王 シリーズ

獣の奏者 シリーズ

・守り人 シリーズ

こちらは長女が中学生に上がってから見つけたのですが、小学生にも大人にも楽しめるファンタジーとして世界中を見渡しても引けを取らない作品群だと思いますので紹介します。

著者は文化人類学者であり、また医学にも造詣が深く、物語の世界観の描写が非常に巧みです。これは間違いなくオススメです。是非一度お手にとってご覧ください。

 

度々の先送りで恐縮ですが、今回はここまでとします。次回は「エッセイ・ポートフォリオ」について述べさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その3

【国語力は全ての基本】

東葛中受検に取り組まれる小学5〜6年生のお子様にとって最も基礎的な学力は何かと問われれば、それはやはり国語力だと考えます。

 

千葉県立中の適性検査で出題される理系総合問題は非常に難しく、お子さんたちはそんな問題をスラスラ解ける「地アタマの良さ」のようなものに憧れがちですが、国語力がその「地アタマ」を養う上で非常に重要な役割を果たしていることは間違いありません。

 

【国語は論理力を鍛える】

「論理力が問われる教科」といえば数学を思い浮かべる方が多いと思いますが、私たちが論理を扱うツールとしてまず最初に手にするものはやはり言語であり、特定の目的(伝えたいこと)に沿ってそれらを組み合わせ、並べ換える文章なのではないでしょうか?

 

【裁判官の論理力】

論理力というものについて考えさせられるエピソードとして特許関係の仕事に携わっている知人から聞いたお話を紹介します。

 

その知人は仕事柄特許を巡って裁判所(知財高裁)で争うことをよくするのですが、いつも、必ずしも係争案件の技術的専門家ではないはずの裁判官が専門家の目から見ても妥当な判決を下すことに驚くそうです。

 

もちろん、知財高裁にはこの手の分野に精通した調査官がいて、裁判官も知財係争関連に詳しい方なのだろうとは思いますがすごいことです。

 

典型的な技術屋で、ゼネラリストというものを普段あまり信用していない知人も、「やはり裁判官にもなる人は優秀なんだなあ」と漏らしておりました。

 

裁判官になる人には若い頃猛勉強が過ぎて車の免許を取り損ね、運転できない人もいると聞きます。それだけ労力をかけて積み上げているものは単なる法律や判例の知識ではなく、それらコトバの訓練によって鍛え上げられた論理力であり、判断力なのでしょう。

 

【本を読む習慣とエッセイポートフォリオ

前置きが長くなりましたが、今回はこの「国語力」に深く関わる、

・本を読む習慣

・エッセイポートフォリオ

について書いてみたいと思います。

 

ポートフォリオ」というのは普段あまり聞きなれない言葉ですが、元々は書類を入れておく紙ばさみや折かばんを意味するもので、その中に投資家・銀行家であれば有価証券、画家・芸術家であれば自分の作品を持ち歩くことから、「財産目録」、「作品集」などと訳されます。

エッセイポートフォリオとはまさに自分がこれまで書いてきたエッセイ集のことです。

現在、大学入試改革の一環として高校での学びをデータベース化するJapan e-portfolioなるものが始動しているようですが、これはまさに高校生活における学びの「財産目録」ないしは「作品集」、すなわちポートフォリオです。

つまり、適性検査対策として積み上げてきた作文をポートフォリオとして管理し、読み解くことでお子さん自身が自分を理解する一助になるし、適性検査二次試験対策にもなるのではないか?という思いつきなわけです...

https://jep.jp/statics/about.html

 

【本を読む習慣と長女との対話】

長女の読書好きを促したきっかけとして、斎藤惇夫氏の「冒険者たち」との出会いがあります。

 

ブログをお読みの方には小学生の頃、テレビ東京の再放送で夕方に放映されていた、どぶネズミ「ガンバの冒険」というアニメをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。「冒険者たち」はそのアニメの原作であり、「グリックの冒険」、「ガンバとカワウソの冒険」に並ぶ斎藤惇夫氏三部作の一つです。

 

長女には4つ下の弟がいるのですが、長女が小学三年生のころ、幼稚園児の弟に絵本の読み聞かせをする母親の姿をみて赤ちゃん返りする時期がありました。

そこで寝る前に自分が中学生のころに愛読していた「冒険者たち」の読み聞かせをするようになったのです。

冒険者たち」には力持ちのヨイショ、知恵者のガクシャ、足の速いイダテンを始め、イカサマ、バレット、バス、テノール、アナホリ...と個性あふれる15匹の仲間たちが登場します。

これら15匹の仲間たちをやや大げさに声色を変えて読み聞かせをしたところ長女は面白がり、この物語をとても気に入りました。

会社の都合で帰りが遅くなり読み聞かせができない日があると、長女は自分で物語を読むようになったのです。

冒険者たち」の読み聞かせが終わると長女は「グリックの冒険」や「ガンバとカワウソの冒険」を自分で読むようになりました。どちらも300ページはあるとても読み応えのある長編なのですが、長女はこれをいつのまにか読了してしまったのです。

自分が読み終えた分厚い本をみて長女は自信をつけたようで、その後貪るように本を読むようになりました。

 

と言っても、長女は別に「勉強」という感覚で本を読んでいたわけでなく、文章に書かれたお話を想像しながら物語を読み進んでいくのが純粋に楽しかったようです。

 

こんにち少し大きな書店の児童書コーナーに行くと、実に様々な児童書が溢れていることに驚かされます。そんな児童書の中から自分の好きな本を器用に探してきては、そのシリーズ、作家の本を読み漁っていくわけです。

 

【おススメ本のリスト】

以降、小学校六年生までに長女が見つけ出してきて読んだ主なものを簡単なコメント付きで紹介します。

 

斎藤惇夫

グリックの冒険

冒険者たち

ガンバとカワウソの冒険

寡作なこの作家は上記を含めて5冊しか作品を発表していないと聞きますが、上記3冊は薮内正幸氏のイラストと共に広く知れ渡った、児童文学の金字塔と言えます。

 

はやみねかおる

・都会のトム・ソーヤー シリーズ

・名探偵夢水清志郎事件ノート シリーズ

・名探偵夢水清志郎の事件簿 シリーズ

・怪盗クイーン シリーズ

・虹北恭助 シリーズ

そして誰もいなくなったアガサ・クリスティ

著者のはやみねかおる氏は教育学部数学科を出た小学校教師としての経歴を持つ人で、「読書嫌いな子も思わず読みたくなるような面白い本を自分で書いてみよう」という動機で作家への道を踏み出しました。

長女はこの作家が大好きで、著作はもちろん、ネットで集めたのか、作家に関する色々なエピソードまで良く知っています。

おそらく「性格が合う」といったレベルで相性が良いのでしょう。

そんな作家と出会えれば、読書も進みますね。

 

あさのあつこ

・No.6 シリーズ

・ミヤマ物語 

The MANZAI

あさのあつこといえば「バッテリー」シリーズですが、長女はNo.6、ミヤマ物語、といった著者の社会派としての一面が色濃く出た作品から入って行きました。時期もちょうど5年生に差し掛かる頃で、この辺りから読書の傾向も変わってきます。

 

宮部みゆき

・ステップファーザー・ステップ

パーフェクトブルー

・心とろかすような マサの事件簿

宮部みゆきの初期作品群(「火車」〜「理由」までの時期)は私と妻も好きで本棚に置いてありますが、長女が手を出せるのはまだ上記のような軽いタッチの作品までのようです。

 

恩田陸

・6番目の小夜子

夜のピクニック

・常野物語 シリーズ

・ミツバチと遠雷

直木賞を受賞した「ミツバチと遠雷」は正確には小学校を卒業後の春休みに読みました。ページ数も多く、この時期に読むにしてはチャレンジングな本ですが、こういった本も読めるようになったようです。

 

以上の本は、お子さんが本と向き合うきっかけを作るのにうってつけの、面白いストーリーばかりです。

 

話が大分長くなってしまいましたので、「本を通じた長女との対話」、「エッセイポートフォリオ」については次回のお題とさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デューイ「学校と社会」を読む その2

前回アメリカプラグマティズムの大家かつ偉大な教育者であり、戦後日本の教育改革に大きな影響を及ぼしているデューイについて、戦後の教育政策の大きな対立軸を形成してきた系統主義教育、経験主義教育とも絡めて紹介を行いました。

 

昨年の学習指導要領の改訂にもみられる通り、現在はゆとり教育への反省に立った系統主義の20年間に位置しますが、当該改訂のバックボーンを貫く「社会に開かれた教育課程」という理念や、教育のHow toに関わる部分での「アクティブラーニング」重視の姿勢は、デューイの教育観や、長女が東葛中で実際に受けている授業とも相入れるものでした。

 

今回は「学校と社会」(以下、「テキスト」と表記します)の中で語られている内容について、私自身の経験に引きつけていろいろと考えてみたいと思います。

 

【教室の形】

テキストには、以下のような記述があります。

 

“生物学者が一片か二片の骨を取って来て完全な動物を再構成することができると同じように、もしわれわれが、醜い机が幾列にも幾何学的に整然とならべられて、できるだけ活動する余地をのこさないように密集させられており、その机たるやほとんどみな同じ大きさで、その上に本・鉛筆・紙などを載せるのにちょうど足りるくらいの広さであり、・・・(中略)・・・といったありふれた教室の風景を心のなかに思い浮かべてみるならば、われわれはこのような場所でおこなわれうる唯一の教育的活動を再構成することができるであろう。それはすべて「ものを聴くために」つくられたものである・・・(中略)・・・ものを聴くという態度は、比較的に言えば、受動的の態度であり、ものを吸収する態度である。・・・(中略)・・・子どもはできるだけ最小の時間にできるだけ多量の教材を取り込めばよいことを意味している。”

 

テキストのこの記述を読んで思い浮かぶのが、会社から通わされた、とあるビジネススクールでの光景です。

 

ありがちな会社の思いつき?なのか、私はクリティカルシンキングを日本でいち早く広めた某ビジネススクールの単科(もちろんクリティカルシンキング)コースに、貴重な土日を削って通わされることになりました。

 

気乗りしない気分で教室に足を踏み入れた瞬間目に飛び込んできたのは、これまで通ってきた学校とはまったく異なる教室の風景です。

 

教室には整然と並べられた机の列の代わりに六脚の椅子で縁取られたテーブルが6つほど離散的に配置され、

 

その周りを大小のホワイトボードが取り巻いていたのです。

 

その理由を知るために、「クリティカルシンキング」(以下、「クリシン」と表記します)というものについて簡単にご紹介します。

 

クリティカルシンキングとは】

クリシンとは、「『健全な批判的精神を持った客観的な思考』を実現し、物事を正しい方法で正しいレベルまで考えるための体系的な方法論」であり、①イシュー(議題)の特定、②抜け漏れのない枠組み設定、③初期仮説の構築、④仮説の検証・進化、⑤結論の導出、という課題解決ステップを踏む。
上記5段階の課題解決ステップのうち①~③は論理的な思考を実現するためのフレームワークまたはプロトコルであり、③~⑤は当該プロトコルの下で思考力を発揮し、結論へと迫って行く部分と言える。
また、③~⑤は根拠→主張の関係に支えられた論理の「ピラミッド・ストラクチャー」を構成しており、相手の認識/関心/反応に合わせて適宜組み替えを行うことで効率的・効果的なコミュニケーションを行うために利用することができる。

 

【クリシンに最適な学習形態と教室の形】

但し、クリシンそのものは思考をより良い方向に導くためのフレームワークに過ぎず、その効果は可視化された思考の繰り返しによる経験則の蓄積を伴って初めて現れるから、最適な学習形態は「座学」ではなく、実際に特定のイシューについてグループワークを行い、意見を交換しあう「アクティブ・ラーニング」の形式をとることが必須であるといえる。

 

つまり、クリシンを学ぶことを主目的とするビジネススクールの授業は本来的に座学よりもグループディスカッションを通じた相互学習を目的としていて、そのような目的が整然と並べられた座席よりも離散的に配置された長テーブルを、唯一の黒板よりも、長テーブルを取り巻く分散配置されたホワイトボードを選択させているのだと後で理解しました。

 

【学校教育とディスカッション】

これまでデューイの経験主義的教育論を述べてきましたが、私自身、ベビーブーマー世代の苛烈な系統主義的教育観の中で育ってきた古い世代であり、クリシンなんてものは

・なんら専門知識もない人が

・答えのない議論をすることで

・自己満足だけを持ち帰る

カモがネギを背負って学校の利益に貢献する場所という意識を捨てきれずにいました。しかしその想いは すぐに捨て去ることになります。

 

典型的な日本の学校教育を受ければ受けるほど、生徒はディスカッションに不向きになって行きます。

 

限られた時間内になるべく多くの知識を詰め込む授業は予期されない生徒からの質問を排除する方向に働きますし、

 

黙々と情報を受け取ることに慣れた生徒は、先生・生徒及び生徒・生徒間のコミュニケーションがより深い知見を先生やほかの生徒から、そして何よりも自分から引き出すことに役立つという事を知りません。

 

そのことに加えて、

 

先生からの問いには常に「模範解答」があり、なるべく模範解答に近い発言をしなければならない。

 

人の発言には格付けがあり、品格のないつまらない発言をするのは恥ずかしい事である。

 

といった考えが働いて、そもそも出来ないことがあるから学校に学びに来ている、つまり「出来ない」ところから始まっているはずなのに、授業での発言を通して少しでも周りの人より「出来ると思われたい」という意識を持ってしまいます。

 

【実効性を上げるための学校の方策】

ビジネススクールの先生方は

・授業の実効性を高めるものは何よりも闊達な議論であり、

・その闊達な議論をする上で先述したような思考回路から導かれる「量より質」、「模範解答」というような考え方が邪魔になる。

という事を理解しており、授業初日はこれを打ち砕く事から始まりました。

 

それは、

・クリシンは「質より量」

・(仕事場と異なり)学校はリスクフリー空間

という言葉であり、

「質より量」を体験するためのグループワークであり、

授業の後の盛大な飲み会であり、

卒業生による世話役の配置

でありました。

 

特にグループワークで経験したことは、系統主義的な学習観を砕く上で非常に効果的でした。初日の授業での最初のグループワークは、ある設定の下で「レストランの売り上げを上げるための方策を、7分間のグループワークで20以上挙げよ。」というもので、事前に配布されたハンドアウトにも予習課題にもない即興課題でありました。

 

初日に出会って数分後の仲間と時限を切られた、一見不可能な課題に取り組む際には、先ほどの「量より質」という考えはどこかへ吹き飛んでしまいます。

 

まずもって「模範解答」的なアイデアなんてものは殆ど新奇性のない最大公約数的なものですから、メンバー間で持ち寄っても重複が多くて数が稼げません。

 

結局、自分とは違う視点を持った誰かが出す新たな論点を深掘りしながらお互いの意見を玉突きで次々展開していくしかないのです。

 

そしてその最中にも、脱線をしないよう常にイシューに立ち返り、自分たちの立ち位置が適切かどうかをチェックしながら進める必要がある。

 

しかしその結果、課題はあっさりとクリアされました。

 

 【授業を通じて学んだこと】

この作業を通じて私は、

・一個人が自己完結した環境の中で考えられることの狭さと

・視点の異なる他者とのアイデアのぶつかり合いが、いかに他人の、そして自身のポテンシャルを引き出すのに役に立つか

 

を学びました。そしてその学びは、その後週末を使って三カ月続いた授業の中で深められて行きました。

 

2017年3月に将棋の現役名人に勝利した将棋ソフト「ボナンザ」。「機械学習」、「深層学習」という手法を用い、自ら学ぶことができるボナンザの強さの秘密は、将棋ソフト同士で行う700万局にも及ぶ対局からの学びにあると言われています。

生身の棋士が生涯に行う対局数は10万局と言われていますが、ボナンザはその70倍の対局を行なっているわけです。

 

そんな将棋ソフトが指す将棋について対局を行った名人は

「将棋にはまだこんな手もまだ残っていたんだ」、「これまで人間がやってきた将棋とはまた別の銀河があってもおかしくはない」

と感じたと言います。

人の認知を広げ、可能性を開いていくのは自己完結的な学びではなく、より多くの自分と異なる考えとのぶつかり合いとその中での学び、気づきにあると言えるでしょう。

 

東葛中で行われているアクティブラーニングを活用した学びについて「自己完結させない学び」という捉え方をし、その価値に賛同する背景には、これまで述べたような経験が背景にあるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デューイ「学校と社会」を読んでみる

【デューイ「学校と社会」を読んでみる】

これまでいろいろと述べてきましたが、私は教育論について特に知見があるわけでもなんでもありません。そこでこれから何回かの記事では、教育論の古典とよばれるものについて近年の学習指導要領の改定や東葛中が目指す教育にも関連づけながら学んでいきたいと思います。まずは、米国プラグマティズムの立場から伝統的な学校教育に大胆な批判を加え、戦後日本の教育改革にも影響を及ぼしたデューイの「学校と社会」について見ていきます。

 

【デューイの略歴】

まずは、「学校と社会」(岩波文庫)の解説に従ってデューイの略歴をざっとまとめてみます。

 

1859  米ヴァーモント州バーリングトンに生まれる

1882    ジョンズ・ホプキンス大学大学院入学

1884 「カントの心理学」で同大学のPh.D.(博士号)取得

1894 シカゴ大学に哲学・心理学・教育学を合わせた学部の部長として招かれる

1896 シカゴ大学付属小学校「デューイ・スクール」開設、1903年まで続く

1905 コロンビア大学で哲学の教授に就任、1930年に退職

 

デューイはもともとヘーゲル主義者としてドイツ観念論哲学に傾倒していましたが、1890年代から精神と行動の関係を実証主義・技術的な見地から、個人と社会の関係を生物学的見地から考えるようになり、デューイ自身が「道具主義・実験主義」と名付ける立場からの活動を続けて行きます。

 

デューイは「観念は実際の状況のなかで使用してみなければ、その正しさを試査することもできないし、その誤りを訂正することもできない」との立場を教育にあてはめて「教育という過程を操作すれば人間の認識の発達や性格の発達についての実験をおこなうことができるであろう。大学に物理学や生物学の実験室があるように、人間の精神の発達について研究するわれわれの学部にもそのための実験室があってよいはずだ。」と主張し、生きた人間の社会生活を実験材料とする実験室としての学校、「実験室学校」の開設を提案し、その提案は1896年のシカゴ大学付属小学校開設として結実します。

 

「学校と社会」は、シカゴ大学付属小学校の生徒と親たちを前に行われた、同小学校における三年間の教育実験の三回にわたる報告講演をまとめたものです。

 

このようにシカゴ大学時代には哲学者としてよりもむしろ教育学者として名声を高めたデューイですが、コロンビア大学に哲学の教授として招かれてからはかれ一流のプラグマティズムを大成し、アメリカ資本主義の発展形態を支える哲学的、思想的基礎の構築に大きく貢献しました。

 

以下は「学校と社会」(岩波文庫)の解説によるデューイの功績に関する記述です。

 

「こうしたデューイの活動によってアメリカ資本主義はその発展形態にふさわしい哲学をもつことができ、プラグマティズムは現代アメリカ哲学の主流として不動の座に上がった。デューイが、すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境との相互作用、環境を統制する努力の中から生まれ、かつ進化すると説く道具主義の立場に立つとき、彼の関心はアメリカ社会の実際生活にむけられる。・・・(中略)・・・デューイは、哲学が自らを再建するためには、「哲学者の問題」を解くためのものたるをことをやめて、「多くの人々の問題」を解決するための哲学的方法となることをもとめ、職業的な哲学者ではない一般の人々が日常生活のなかで出会うあれこれの問題を根本的に、原理的に解明する方法として哲学は再発足すべきであると説いている。デューイの哲学が普通人(common man)の哲学とよばれるのは、この意味においてである。」 

 

【教育学の二大潮流、系統主義・経験主義とデューイ】

私は教育学を系統だてて学んだことがないので生半可な知識で恐縮ですが、「系統主義」、「経験主義」というキーワードを中心に教育学の潮流とデューイの位置づけを見てみましょう。

  1. 学校は、暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、そのなかで子どもたちが興味にあふれて活動的な社会生活をいとなむ小社会にならなければならない。
  2. この小社会は、たんにそこで子どもたちの自発的な活動がおこなわれる小社会であるばかりではなく、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなければならず、そのために学校と社会とのあいだの活発な相互作用がおこなわれなければならない。

とするデューイの教育学は、「経験主義教育学」に分類されるようです。

一方、科学や学問の成果を段階を追って系統だてて教えることを重視するのが「系統主義教育学」であり、それぞれ以下のように整理されています。

https://macanori.files.wordpress.com/2010/12/e7b3bbe7b5b1e4b8bbe7bea9e381a8e7b58ce9a893e4b8bbe7bea9e381aee69599e882b2e8aab2e7a88b2.pdf

【系統主義と経験主義の間を揺れ動く日本の戦後教育】

日本の戦後教育は、系統主義と経験主義の間を振り子のように往復してきました。日刊SPA!+plusの連載記事

nikkan-spa.jp

では、系統主義教育を知識重視型学習、経験主義教育を問題解決型教育と位置づけた上で、戦後教育にみられた両教育観の間の往復を以下のようにまとめています。

https://nikkan-spa.jp/wp-content/uploads/2016/09/77586bb7d86b8ffa33552c71954b1c8d.jpg

上掲の表によれば、現在は「脱ゆとり教育の20年」、すなわち「ゆとり教育の30年」で表面化した学力低下問題等をうけて振り子が再び系統主義教育の方へと振れている時期との認識ができます。

一方、昨年3月に公示された学習指導要領の改定に向けた審議のポイント

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/09/09/1377021_3.pdf

では

これまで改訂の 中心であった「何を学ぶか」という指導内容の見直しにとどまらず、「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」までを見据えて学習指導要領等 を改善

とあり、「どのように学ぶか」については「アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)の視点からの学習過程の改善」が、また上述の三つの柱を実現するために「社会に開かれた教育課程の実現」が盛り込まれています。

 

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/061/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/07/20/1374453_1.pdf

この、「アクティブ・ラーニング」や「社会に開かれた教育課程の実現」というのはまさにデューイが「学校と社会」で述べていることなのです。ゆとり教育への反省から系統主義教育へと振れているといえる今回の指導要領改定にあって、その改定の重要な部分に、経験主義的教育と分類されるデューイの教育観がしっかりと入り込んでいるのは興味深いところです。

 

【「社会に開かれた教育課程」とデューイ】

新指導要領のいわば核心である「社会に開かれた教育課程」について、「学習指導要領改定の方向性(案)」では

よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協働しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む

としていますが、この点に関してデューイは「学校と社会」のなかで

社会とは、共通の線に沿い、共通の精神において、また共通の目的に関連してはたらきつつあるが故に結合されている、一定数の人々ということである。この共通の必要および目的が、思想の交換の増大ならびに共感の統一の増進を要求するのである。こんにちの学校が自然な社会単位として自らを組織することができない根本的理由は、まさしくこの共通の、生産的な活動という要素が欠けているからである。運動場では、遊戯や競技の間に、社会的組織が、自発的に、不可避に、つくられている。・・・(中略)・・・ところが、教室では、社会的組織についてこのような動機も接合力も欠けている。倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境のなかで、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。 

と述べ、新学習指導要領とおなじ問題意識を共有しています。

デューイは更に、教室に共通の必要および目的を持ち込む手段として木工・金工・編物・裁縫・料理などの作業を重視し、それらが学校生活の各局面で有効に活用された場合に子どもたちの社会的態度にあらわれる変化について、以下のように述べています。

たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない。・・・(中略)・・・じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである。・・・(中略)・・・活動的な作業がおこなわれているところでは、すべてこれらの事情は一変する。そこでは、他の者に助力することは、助力される者の力をかえって貧しくするような一種の慈善ではなくて、たんに助力される者の力を解放し、衝動を推進する援助であるにすぎない。自由なコミュニケイションの精神、観念と提示と結果・いいかえれば以前の経験の成功ならびに失敗を交換するという精神が、復誦の基調となるのである。

東葛中学での課題に取り組む長女の姿をみて感じた、「一人で完結させない学び」の意図、精神がまさにそこにあるような気がするのですがいかがでしょうか?

そして東葛中の適性検査にもまさに、学びを社会との関連のなかで行う姿勢をもつ子どもたちを選びたいという意図を感じます。そして適性検査がそのような意図で行われているとすれば、それはとても適切なことだと考えます。東葛中で行われている授業がまさに、「よりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協力しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む」という目的意識がはっきりと感じられる内容になっていると感じるからです。

 

千葉県の適性検査が求める人物像、東葛中の授業(あくまで私が触れうる限りでの推測にすぎませんが)、そして今回の学習指導要領の改定が示唆しているこれからの20年間が教育に求めるもの。それらの底流をながれる(と私が勝手に思い込んでいる)デューイの教育論について、近年行われた学習指導要領の改定なども外観しながらご紹介しました。

 

ふだんあまりしっかりと勉強することのない教育論について、もうしばらく見て行きたいと思います。

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その2

【「対策で出来ることは半分」の意味】

最初に、「対策で出来ることは半分」という言葉の意味について私の考えを明確にしたいと思います。

 

まず、

 

千葉・東葛中適性検査では、一般的な私立中学入試よりも「ものの考え方や、身の周りにある社会との接点への関心、自分を客観的に見つめ直すことのできる視点」が重要であり、それを養うために「自分とは異なる視点、考え方を持つ人との対話を通じた論理力・思考力の訓練」の重要性、寄与度が高い。

 

 という事は明確に言えると考えています。

 

但しそれは、

 

千葉・東葛中受検に合格するためには幼少からの家庭教育と、その結果としてのお子さんの能力・資質が決定的に重要で、たかだか2年程度の対策・努力でカバーできるものではない。即ち、受検の前から、「受かる子」、「受からない子」はある程度決まってしまっている。

 

ということでは決してないと考えています(そしてこれは、東葛中受検に関する私の一貫した、譲れない考え方です)。

 

【親が子供を伸ばせる可能性が半分もある!】

小学5年生から受検対策に取り組むとして2年間。この時期のお子さんは伸び盛りで、対策を通じて触れる問題、文章、テーマ、図表はお子さんの関心を、暗記・解法習得型の自己完結的な勉強から、問題解決・表現型の相互作用的な勉強へと開く大きなチャンスだと考えます。

 

別に幼児教育に取り組んだり、特別な訓練をしたりする必要はなくて、受検対策に取り組みながら子供と向き合う時間を増やし、親御さんご自身のモノの見方をお子さんにぶつけて刺激を与えてあげれば良いだけだと考えます。

 

そしてお子さんがこれから取り組もうとする適性検査問題で扱われるテーマは、親御さんと共有し、取り組むのにうってつけなのです。

 

「対策でできることは半分」と捉えるよりもむしろ、「親が子供を伸ばせる余地が半分もある」と捉え、受検対策という特別な時間を利用してお子さんとのコミュニケーションを増やしてみてはいかがでしょうか?

 

【文系総合問題対策で取り組んだテーマ】

 文系総合問題対策は基本的には塾にお任せし、私は長女が家で独習を行っている際に「解答例にはこう書いてあるけど、自分の解答でも良いか?」とか「解答例にはこう書いてあるけど、こんな考え方もあるのではないか?」といった質問に答えた程度で、長女が取り組んだ対策の全部を把握しているわけではないのですが、長女が文系総合問題対策で取り組んだテーマは、

 

食料自給率、人口問題、環境問題、二酸化炭素排出量、輸送・交通、日本の林業、電気・発電、昼間人口と夜間人口、ごみ問題、情報について、生乳生産量と地域、バイオガソリン、フードマイレージ、社会・生活の変化と大学進学、バーチャルウオーター、医療問題、自動車の生産

 

 と、私たちの仕事や生活に関わりのある事柄ばかりです。

 子供とのコミュニケーションをとるのにうってつけと言えるのではないでしょうか?

 

池上彰になる必要はなく、大人の見方をぶつけてあげれば良い】

 別に池上彰さんのように、時事問題の背景を鮮やかに整理したり、正しい知識を即答することが求められているわけではないという点に気をつけましょう。

 

上記のように考えてしまうと、子供からの質問がプレッシャーとなって対応するのが億劫になり、逆に子供からの質問を避けるようになってしまいます。Wikipediaやニュースサイト、ブログなど、インターネットで関連するサイトを探して難しい言葉を言い換えてあげたり、ご自身のお仕事を通じた経験、感想を交えながら一緒に考えてあげるだけで良いのです。

 

社会で働いたり、家計をやりくりした経験がなく、これからそうなるために専ら知識や知恵を蓄える段階にあるお子さんと、すでに蓄えた知識や知恵を使って変化する環境にに対応し、行動していかなければならない大人とでは上記のようなテーマの受け取り方や考え方に違いがあります。

 

上記のようなテーマに関連して親御さんのお仕事まわりや生活でどのような影響、変化があったのかを話してあげるだけで、お子さんのモノの見方に広がりが生まれ、より深く考える姿勢を身につけてくれます。そしてそのちょっとした知見の広がりが、伸び盛りのお子さんに大きな成果をもたらすと私は考えています。

 

【記述演習で取り組んだ文章】

塾では、文系総合問題対策とは別に、二次検査も見据えた記述問題演習に取り組んでいました。文章を読み、簡単な読解問題に答えた後、400〜500字程度の作文問題を解く形式でした。

 

以下は、記述問題演習で取り上げられた文章です。

 

加藤秀俊「取材学 探求の技法」中央公論新社

田中優子「グローバリゼーションの中の江戸」岩波ジュニア新書

及川和男「森は呼んでいる」

池内了「私のエネルギー論」

高田宏「森が消えるとき」

藤倉良「エコ論争の真贋」

日高敏隆「人間はどこまで動物か」

松沢哲郎「想像するちから」

正高信男「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」

川端裕人「てのひらの中の宇宙」

小川洋子博士の愛した数式

外山滋比古「わが子に伝える『絶対語感』」

外山滋比古「ことばの教養」

清水義範「行儀よくしろ」

森本哲郎「日本語 表と裏」

中西進「日本人の忘れもの」

五木寛之「こころ・と・からだ」

俵万智「りんごの涙」

村上龍13歳のハローワーク

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」

田中修「植物のあっぱれな生き方」

立川昭二「『気』の日本人」

稲垣栄洋「雑草は踏まれても諦めない」

最相葉月「特別授業3.11君たちはどう生きるか

木下是雄「理科系の作文技術」

養老孟司「メッセージのメッセージ」

山崎充哲「タマゾン川 多摩川でいのちを考える」

福井謙一「学問の創造」

羽生善治「大局観」

 

文系総合問題で扱われるテーマともリンクした、素晴らしい書き手による文章が厳選されており、大人が読んでみても非常に興味深い文章です。厳選された文章の、しかもエッセンスの部分が使われているため、この記述問題演習はファイルに保存してありますが、これも、お子さんとコミュニケーションをとるのに最良の素材だと考えます。

 

【まとめ】

東葛中適性検査対策、とりわけ文系総合問題や二次検査の作文問題で取り上げられるテーマ、教材は親御さんの仕事や生活とも関わりの深い問題ばかりで、しかも良質のテキストが揃っています。

 

東葛中受検は決して、受検前から、「受かる子」、「受からない子」が決まってしまっているようなものではありません。

 

「対策で出来ることは半分」という言葉は「親が子供を伸ばせる可能性が半分もある!」という言葉に捉え直して、適性検査対策に取り組む期間を、良質な教材を媒介に子供とのコミュニケーションを増やすチャンスに変えることが重要だと考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返り「長女との対話」編 その1

既に何度か触れさせていただいた「誉田進学塾」。

千葉市を本拠地としており、東葛地区から通うのは難しいのですが、千葉県適性検査指導にあたっての当進学塾の理念・哲学をとても尊敬しています。

 

そんな「誉田進学塾」のホームページで以下のような文章に出会いました。

 

以下、引用します。

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「学校の勉強はあてにならない」とか「何をやらせたらいいですか」というようなご質問を受けることが多々ありますが、わたしは、千葉中対策を10年続けてきた感触からすると、この質問にちょっと違和感をおぼえます。学校生活からしか学べないことは多く、行事や役割、集団生活そのもの自体、千葉中で求められる力に直結しています。「何をやらせたらいいか」と子ども自身に何かをやらせようとする前に、どれだけ子どもとの接点を多くするかを考えるべきです。勉強量がいくら多くても、大人との会話量が少ない子どもは、適性検査には向きません。
 
開校に合わせて取り組んできた千葉中対策特別講座は、手前味噌ですが、他のどんなプログラムよりも適性検査突破に近づくものだと自負しています。でも、それでも、対策でできることは、適性検査が求めていることの半分でしかありません。あとの半分は、「対策学習」ではなく、日々の生活や、どんな人物に成長しているかということなので。
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TOP-S(千葉県適性検査対策模試)が非公開化されたために触れる機会がなくなってしまいましたが、その問題の得点分布と採点基準の再現性は素晴らしく、記述問題の添削には物凄い価値があると感じました。

 

このように千葉県適性検査を分析し尽くしている当塾でさえ、「対策学習」で出来ることは半分と言い、日々の生活や大人との会話を通じた「人間的な成長」が重要と説いています。

 

これまで適性検査における理系総合問題対策を中心に書いて来ましたが、以降「長女との対話」に焦点を当てた振り返りを行ってみたいと思います。