長女の卒業と長男の進路選択

■長女の卒業と長男の進路選択

早いもので長女も先日卒業式を終え、4月には大学生になります。

 

物理・化学選択で二次試験ではかなり数学に傾斜した配点と、JKには胃もたれしそうな志望校・学部ではありましたが、何とか胃袋におさめ、合格できました。

高校生ともなると親の出る幕もなく、友人から常に刺激をもらい、中学から伴走して下さった先生方にも支えられて自ら切り拓いた進路。

四月からはゆったりとした気持ちで路傍の景色も楽しみながら歩んでもらえたらと思います。

 

そんな長女の選択とその大変さを間近で見聞きし、その道を選ばなかった長男もこの春には中学3年生。先日初めての進路希望調査がありましたが、長男が自ら探し出した答えが「高専受験」。

 

「自分一人でこんな答えをよく見つけてきたな」と我が子ながら感心しきり。

ロボコンで耳にするくらいで全く知らなかった高専ですが、いろいろと調べていく中で長男の志向、性格にばっちりとあっているのが分かり、「塾に通いたくないから試験勉強を頑張ってきた」長男もとうとう4月から高専専門塾に入塾することになりました。

 

ここはもともと「公立一貫校受検」の情報の少なさに不便さを感じて立ち上げたブログでありますが、「姉に比べられたくない、一緒の道を歩きたくない」長男が選択した「高専受験」というのもまた、非常に興味深いわりにあまり知られていない道だと思いますので、私が調べた範囲で別の機会に紹介したいと思います。

 

■受験・受検とは結局何だったのか?〜園田氏の論文を引き合いに〜

ここで閑話休題

直近何回か、長女と長男の対称的な志向・選択なども踏まえ、自分そして子供が取り組み乗り越えてきた受験・受検とは結局なんであったのか?ブレーンストーミングしてきましたが、今回はその核心に触れていると思われる園田英弘氏の論文「学歴社会ーその日本的特質」

www.jstage.jst.go.jp

を引き合いに考えてみたいと思います。

園田英弘氏(1947-2007)は国立民族学博物館助教授や国際日本文化研究センター教授などを勤め、1994年に「西洋化の構造」でサントリー学芸賞を受賞した日本の社会学者です。

「学歴社会ーその日本的特質」は1983年に日本教社会学会が発行する「教育社会学研究」に掲載されたかなり昔の論文であり私もネットでたまたま見つけたものですが、分析の切り口が鋭く、私自身が感じていたものともよく合致するので紹介させていただきます。

学歴獲得がもたらす将来的利益に必ずしも比例しない日米欧の受験競争の度合い

園田氏は冒頭、学歴獲得がもたらす生涯賃金の差が日本よりも米国においてより顕著であるにもかかわらず、なぜ日本においてより受験競争が加熱しているのか?と以下のような問題提起を行います。

人間が、社会学が大前提として仮定しているように、高い社会的威信や経済的報酬の最大満足を求める存在であるとするならば、日本の受験競争は、与えられる報酬のわりには非合理的なほどに激しく、逆に、欧米の社会は、非合理的なほどに、受験競争が不在なのである。日本でことさらに、受験競争を促進させている要因があるとすれば、それは何か。そして、欧米に日本的な受験競争を促進させないなにものかがあるとすれば、それは、一体何か。

そして園田氏は以下のとおり、学歴という業績原理の導入が、社会的地位が世襲によって決められる身分制の崩壊過程において「残存する身分制との対立・融合」という形で行われてきたことに着目し、その残存する身分制との対立・融合のあり様の違いすなわち「社会階層構造」の比較分析によって冒頭の問題に対する解が得られるのではないかと考えます。

学歴が社会的地位の形成に大きな影響力をもつためには、社会的地位が世襲によって決められる身分制社会の崩壊が前提 となる。しかし身分制社会というものが一挙に消滅してしまうことはありえず、学歴という業績原理が社会の一部に導入されたとしても、そこには残存する身分制との対立・融合が必ず生じてくる。

(中略)

要するに、問題点は、日本に身分制が残存しているかどうかではなく、残存している身分制が、日本と西洋社会でどのように異なっているかである。社会的地位のハイアラーキカルな構造が、権力・威信・富の不平等分配から生じ、学歴がその不平等分配に大きな影響力を発揮するのが学歴社会であるとするならば、その社会的資源の不平等分配の前提となっている社会階層構造の比較分析こそが決定的に重要なのである。

二つの社会階層の類型

上記のような問題意識から園田氏は、「十分な論証はできないが」と前置きしつつ身分制の崩壊の形態に着目して①閉鎖的階層社会、と②開放的階層社会、の二つの社会階層の類型を提示し、その類型ごとに学歴主義の導入過程を分析しています。

園田氏によれば閉鎖的階層社会は「社会階層間の闘争によって身分制が崩壊して生じた閉鎖的な階層社会」と定義され、イギリス、フランス、ドイツが典型例にあげられます(イギリスの派生国として生まれたアメリカはこの典型ではないが、一つの事例)。

一方開放的階層社会は「支配身分の防衛的近代化によって身分制が崩壊して生じた開放的な階層社会」と定義され、日本、トルコ、ペルーが典型例にあげられます。

閉鎖的階層社会における学歴主義の導入過程

園田氏はまず、社会階層間の闘争による身分制社会の衰退が閉鎖的階層構造をもたらすプロセスについて、以下のようにまとめています。

  • 経済的実力を一段と強めた都市中間層による貴族の身分特権に対する攻撃という形で行われる社会階層間の闘争が各社会階層の階層としての自覚を強める
  • 上記の結果、階層間の差をきわだたせ、他の階層の排除を目的とした強固な階層文化(生活様式・価値観)が発達する
  • その結果として階層文化の断絶(閉鎖的階層社会)が生まれる
支配層側の原理

そして園田氏によれば、軍隊・行政組織の効率性増大の要求から陸海軍士官や高級官僚にも職業の専門職化が進行して教育的資格が要求されるようになるに従い、階層間の妥協の産物として学歴主義を鬼子として抱え込まざるを得なかった支配階層は、特権的階層の被害を最小化する方策として以下のような「階層文化の教育体系への反映」、すなわち支配階層の文化を自由な競争の場に持ち込もうとする努力を行います。

欧州における「階層文化の教育体系への反映」の事例
  • 階層閉鎖的な中等学校
  • 貴族的な教養とされていたギリシア・ラテンの古典教育の重視とそれがそのまま公開競争試験に反映された試験制度
  • 陸軍での連隊への任官に際して、士官学校専門学科の成績以上に、パブリック・スクール出身であるか否かを重視
米国における「階層文化の教育体系への反映」の事例
  • ハーバード大学の入学試験は1880年まで公立学校ではほとんど教えないギリシア語のみ
  • 入試における課外活動・パーソナリティなど学力以外の選考基準の重視(大学のパトロンである特定社会階層の文化的理想の反映)
  • ハーバード出身者の子供に対する入試における優遇(特定の階層との密接な関係を維持しようとする大学当局のポリシー表明、cf. ニューヨークタイムスによるZリスト報道)

    www.businessinsider.jp

初期的学歴エリートの側の原理

一方園田氏は、階層文化の断絶が大きい社会において、メリトクラシーの原則(=学歴主義)の潮流を追い風に貴族による身分的特権の独占に対して挑戦を行う側であった初期的な学歴エリートの側にも以下の様に階層文化を取り込んでいく合理性があったと考察しています。

  • 専門的知識や技術は、なにごとかを実行する有効な手段にはなりえても、それだけで専門的職業の威信を支える基盤になりえない
  • 職業的威信は、社会全体の威信構造を反映したものであって、その逆ではない
  • 従って初期的な学歴エリートであったプロフェッショナル層は、貴族以外の階層出身者が多くなればなるほど、より一層強く、貴族の文化に同化することによって、自らの専門的職業の威信を高める必要があった。

開放的階層社会(日本)における学歴主義の導入

園田氏は、欧米と異なり階層間の闘争によって身分制の崩壊が進行しなかった日本においては「上流階級の団結強化」が進行せず、むしろ支配身分であった武士が近代化のための国家の合理的な改革の一環として自ら身分閉鎖的な階層秩序を撤廃し、国家の主要なポストへの人材の補充と昇進にメリトクラティックな原則(=学歴主義)を採用したため、学歴主義の導入過程は以下の通り、欧米とはかなり異なった様相になったと考察しています。

日本では、身分的特権をめぐる社会階層間の闘争が不在だったために、支配的階層であった武士の身分的特権に対する防衛的姿勢は、ヨーロッパに比べ著しく稀薄であり、このため、武士の階層の文化は、生きた、行動を支配する思想というよりは、たんなる過去の伝統にしかすぎないものになってしまった。かくして、階層閉鎖的独自の文化をもった支配的集団は、日本の社会階層の中で大きな意味をもたなくなったのである。しかしながら、ハイアラーキカルな階層序列は、国家の威信の序列に置き換えられ、過去にもまして大きな力をもつようになった。江戸期の身分制的ハイアラーキカルな階層序列とは、第一義的には、武士の社会内でのみ意味をもっていたが、階層閉鎖的傾向が一掃されたことによって、逆に、このようなハイアラ ーキカルな秩序は、全国民をまき込んだかたちで、国家の威信序列の中に一元化されたのである。

 

西洋において日本ほど受験競争が激化していない理由(園田氏のまとめ)

異なる二つの階層社会類型における学歴主義の導入過程の相違に関する考察を踏まえて園田氏は、冒頭に提起した問いに対する解を以下のようにまとめています。

西洋では、大学、特にエリート大学は、それぞれの社会の支配的階層の文化を体現しており、大学入学に向けての競争は、日本的感覚でいえば不公平な競争にならざるをえなかった。イギリスでは、現在はオックス・ブリッジといえども、授業料はイギリス国民であるかぎり無料である。しかしながら、経済的障害が少なかったとしても、そこに体現されている貴族的文化に積極的に同化しようとする野心的な若者の数は、一部の中産階層以上の子弟などに、どうしても制限されたものになってくるであろう。西洋では日本ほどには受験勉強に熱心でないのは、これらの国々の多くの若者にとっては、受験競争とは、学力の練磨であると同時に、文化を、つまり生き方そのものを転換させる作業を意味しているからではなかろうか。

「なぜ『受検』だったのか?あらためて考えてみる:その①」で長男の選択(中学受検を選択せず、小学校からの仲間と公立中学校でサッカーを続けること)にふれた際、

  • 優等生的に大人の意図を読み取り、自らの意図を上書きしてきた面も多分にあった私とは異なり、「良い学校」よりも「自分の居心地の良さ」を上位に置くことができる価値観の軸を持ち得ていること
  • そしてその価値観の軸が、大人の入れ知恵や借り物ではなく、小学1年生から続く仲間との良い関係性構築という実体験に支えられていること

との観点から長男を羨ましく感じたこことを述べましたが、上記園田氏のまとめの最終行での

西洋では日本ほどには受験勉強に熱心でないのは、これらの国々の多くの若者にとっては、受験競争とは、学力の練磨であると同時に、文化を、つまり生き方そのものを転換させる作業を意味しているからではなかろうか。

との指摘は長男の選択の背後にあるものを鋭く言い当てている気がしてなりません。「全国民をまき込んだかたちで、国家の(学力を中心とした)威信秩序の中に一元化された」ハイアラーキカルな秩序に染まった私や長女の常識を長男は、「そんなの僕の生き方じゃないよ」と、威信秩序よりもどんな価値観・文化に身をおいてこの先の人生を生きるのかを優先させる価値判断をよりどころにあっさり棄却してみせたということなのかもしれません。

話がかなり長くなってしまいました。「受験・受検とは結局なんだったのか?」との問いに対する解を探す作業をもう少し続ける必要がありそうです。次回および次次回にて今回のテーマの延長戦と、長男の選択である「高専受験」に関する情報共有を行いたいと思います。