デューイ「学校と社会」を読んでみる

【デューイ「学校と社会」を読んでみる】

これまでいろいろと述べてきましたが、私は教育論について特に知見があるわけでもなんでもありません。そこでこれから何回かの記事では、教育論の古典とよばれるものについて近年の学習指導要領の改定や東葛中が目指す教育にも関連づけながら学んでいきたいと思います。まずは、米国プラグマティズムの立場から伝統的な学校教育に大胆な批判を加え、戦後日本の教育改革にも影響を及ぼしたデューイの「学校と社会」について見ていきます。

 

【デューイの略歴】

まずは、「学校と社会」(岩波文庫)の解説に従ってデューイの略歴をざっとまとめてみます。

 

1859  米ヴァーモント州バーリングトンに生まれる

1882    ジョンズ・ホプキンス大学大学院入学

1884 「カントの心理学」で同大学のPh.D.(博士号)取得

1894 シカゴ大学に哲学・心理学・教育学を合わせた学部の部長として招かれる

1896 シカゴ大学付属小学校「デューイ・スクール」開設、1903年まで続く

1905 コロンビア大学で哲学の教授に就任、1930年に退職

 

デューイはもともとヘーゲル主義者としてドイツ観念論哲学に傾倒していましたが、1890年代から精神と行動の関係を実証主義・技術的な見地から、個人と社会の関係を生物学的見地から考えるようになり、デューイ自身が「道具主義・実験主義」と名付ける立場からの活動を続けて行きます。

 

デューイは「観念は実際の状況のなかで使用してみなければ、その正しさを試査することもできないし、その誤りを訂正することもできない」との立場を教育にあてはめて「教育という過程を操作すれば人間の認識の発達や性格の発達についての実験をおこなうことができるであろう。大学に物理学や生物学の実験室があるように、人間の精神の発達について研究するわれわれの学部にもそのための実験室があってよいはずだ。」と主張し、生きた人間の社会生活を実験材料とする実験室としての学校、「実験室学校」の開設を提案し、その提案は1896年のシカゴ大学付属小学校開設として結実します。

 

「学校と社会」は、シカゴ大学付属小学校の生徒と親たちを前に行われた、同小学校における三年間の教育実験の三回にわたる報告講演をまとめたものです。

 

このようにシカゴ大学時代には哲学者としてよりもむしろ教育学者として名声を高めたデューイですが、コロンビア大学に哲学の教授として招かれてからはかれ一流のプラグマティズムを大成し、アメリカ資本主義の発展形態を支える哲学的、思想的基礎の構築に大きく貢献しました。

 

以下は「学校と社会」(岩波文庫)の解説によるデューイの功績に関する記述です。

 

「こうしたデューイの活動によってアメリカ資本主義はその発展形態にふさわしい哲学をもつことができ、プラグマティズムは現代アメリカ哲学の主流として不動の座に上がった。デューイが、すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境との相互作用、環境を統制する努力の中から生まれ、かつ進化すると説く道具主義の立場に立つとき、彼の関心はアメリカ社会の実際生活にむけられる。・・・(中略)・・・デューイは、哲学が自らを再建するためには、「哲学者の問題」を解くためのものたるをことをやめて、「多くの人々の問題」を解決するための哲学的方法となることをもとめ、職業的な哲学者ではない一般の人々が日常生活のなかで出会うあれこれの問題を根本的に、原理的に解明する方法として哲学は再発足すべきであると説いている。デューイの哲学が普通人(common man)の哲学とよばれるのは、この意味においてである。」 

 

【教育学の二大潮流、系統主義・経験主義とデューイ】

私は教育学を系統だてて学んだことがないので生半可な知識で恐縮ですが、「系統主義」、「経験主義」というキーワードを中心に教育学の潮流とデューイの位置づけを見てみましょう。

  1. 学校は、暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、そのなかで子どもたちが興味にあふれて活動的な社会生活をいとなむ小社会にならなければならない。
  2. この小社会は、たんにそこで子どもたちの自発的な活動がおこなわれる小社会であるばかりではなく、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなければならず、そのために学校と社会とのあいだの活発な相互作用がおこなわれなければならない。

とするデューイの教育学は、「経験主義教育学」に分類されるようです。

一方、科学や学問の成果を段階を追って系統だてて教えることを重視するのが「系統主義教育学」であり、それぞれ以下のように整理されています。

https://macanori.files.wordpress.com/2010/12/e7b3bbe7b5b1e4b8bbe7bea9e381a8e7b58ce9a893e4b8bbe7bea9e381aee69599e882b2e8aab2e7a88b2.pdf

【系統主義と経験主義の間を揺れ動く日本の戦後教育】

日本の戦後教育は、系統主義と経験主義の間を振り子のように往復してきました。日刊SPA!+plusの連載記事

nikkan-spa.jp

では、系統主義教育を知識重視型学習、経験主義教育を問題解決型教育と位置づけた上で、戦後教育にみられた両教育観の間の往復を以下のようにまとめています。

https://nikkan-spa.jp/wp-content/uploads/2016/09/77586bb7d86b8ffa33552c71954b1c8d.jpg

上掲の表によれば、現在は「脱ゆとり教育の20年」、すなわち「ゆとり教育の30年」で表面化した学力低下問題等をうけて振り子が再び系統主義教育の方へと振れている時期との認識ができます。

一方、昨年3月に公示された学習指導要領の改定に向けた審議のポイント

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/09/09/1377021_3.pdf

では

これまで改訂の 中心であった「何を学ぶか」という指導内容の見直しにとどまらず、「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」までを見据えて学習指導要領等 を改善

とあり、「どのように学ぶか」については「アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)の視点からの学習過程の改善」が、また上述の三つの柱を実現するために「社会に開かれた教育課程の実現」が盛り込まれています。

 

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/061/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/07/20/1374453_1.pdf

この、「アクティブ・ラーニング」や「社会に開かれた教育課程の実現」というのはまさにデューイが「学校と社会」で述べていることなのです。ゆとり教育への反省から系統主義教育へと振れているといえる今回の指導要領改定にあって、その改定の重要な部分に、経験主義的教育と分類されるデューイの教育観がしっかりと入り込んでいるのは興味深いところです。

 

【「社会に開かれた教育課程」とデューイ】

新指導要領のいわば核心である「社会に開かれた教育課程」について、「学習指導要領改定の方向性(案)」では

よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協働しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む

としていますが、この点に関してデューイは「学校と社会」のなかで

社会とは、共通の線に沿い、共通の精神において、また共通の目的に関連してはたらきつつあるが故に結合されている、一定数の人々ということである。この共通の必要および目的が、思想の交換の増大ならびに共感の統一の増進を要求するのである。こんにちの学校が自然な社会単位として自らを組織することができない根本的理由は、まさしくこの共通の、生産的な活動という要素が欠けているからである。運動場では、遊戯や競技の間に、社会的組織が、自発的に、不可避に、つくられている。・・・(中略)・・・ところが、教室では、社会的組織についてこのような動機も接合力も欠けている。倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境のなかで、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。 

と述べ、新学習指導要領とおなじ問題意識を共有しています。

デューイは更に、教室に共通の必要および目的を持ち込む手段として木工・金工・編物・裁縫・料理などの作業を重視し、それらが学校生活の各局面で有効に活用された場合に子どもたちの社会的態度にあらわれる変化について、以下のように述べています。

たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない。・・・(中略)・・・じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである。・・・(中略)・・・活動的な作業がおこなわれているところでは、すべてこれらの事情は一変する。そこでは、他の者に助力することは、助力される者の力をかえって貧しくするような一種の慈善ではなくて、たんに助力される者の力を解放し、衝動を推進する援助であるにすぎない。自由なコミュニケイションの精神、観念と提示と結果・いいかえれば以前の経験の成功ならびに失敗を交換するという精神が、復誦の基調となるのである。

東葛中学での課題に取り組む長女の姿をみて感じた、「一人で完結させない学び」の意図、精神がまさにそこにあるような気がするのですがいかがでしょうか?

そして東葛中の適性検査にもまさに、学びを社会との関連のなかで行う姿勢をもつ子どもたちを選びたいという意図を感じます。そして適性検査がそのような意図で行われているとすれば、それはとても適切なことだと考えます。東葛中で行われている授業がまさに、「よりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協力しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む」という目的意識がはっきりと感じられる内容になっていると感じるからです。

 

千葉県の適性検査が求める人物像、東葛中の授業(あくまで私が触れうる限りでの推測にすぎませんが)、そして今回の学習指導要領の改定が示唆しているこれからの20年間が教育に求めるもの。それらの底流をながれる(と私が勝手に思い込んでいる)デューイの教育論について、近年行われた学習指導要領の改定なども外観しながらご紹介しました。

 

ふだんあまりしっかりと勉強することのない教育論について、もうしばらく見て行きたいと思います。